真霊論-細木数子

細木数子

昭和13年(1938年)、東京都渋谷区円山町に、8人兄妹(三男五女)の四女として生まれた細木数子。その波乱に満ちた生涯は、彼女が世に送り出した「六星占術」の神秘性とは、まるで別の次元で展開されている。

現代の日本で「占い師」という言葉から真っ先に顔が浮かぶ人物といえば、細木数子をおいて他にいないだろう。毎年出版する本は次々とベストセラーを記録し、累計販売部数は5300万部を超えた。その数字はギネスブックにも「世界一占いの本を売った人物」として刻まれている。

ただ、その名声は称賛だけで彩られてきたわけではない。テレビでの辛辣な発言や強引な物言いは批判を呼び続けた。「占いで人は変わらない」と本人が豪語していたことも、何とも皮肉な響きを持って記録に残っている。

また、関西学院大学の社会学者・種田博之は論文「占いの宗教への変容」(2000年)の中で、細木の著作群を事例として取り上げ、占いが先祖崇拝の正当化を通じて一種の宗教的機能を帯びていく過程を分析している。細木の「六星占術」が単なる占い本の枠を超えた影響力を持ったことは、学術的にも注目されているのだ。

占い師以前の細木数子——激動の前半生

細木の人生は、幼少期から過酷なものだった。小学1年生のとき、父を亡くす。生計を支えるため、父が経営していたバー「ロマンスクラブ」は、母と姉妹5人で切り盛りするおでん屋「娘茶屋」へと姿を変えた(のちに「南海」、そして「千代」へと改名)。細木自身も13歳の頃から店を手伝い始めている。

15歳で成徳学園高校(現・下北沢成徳高校)に入学し、16歳のときにはミス渋谷に選出される。本人によれば「自分で応募したのではなく、店の常連客が勝手に応募していた」とのことで、その美貌が周囲の目に自然と留まるほどだったのだろう。

しかし17歳になると高校を中退。貯金をはたいて喫茶店「ポニー」をオープンするも半年で売却してしまう。1957年、その資金を元手に新橋駅近くにクラブ「潤」をオープン。翌1958年には売却して成城学園駅前に子供洋服店「バンビーノ」、1959年には銀座にバー「かずさ」を次々と立ち上げた。静岡の老舗の息子と結婚したのもこの頃のことだが、後に離婚している。

1961年には銀座にバー「だりあ」、1964年には赤坂にディスコ「大使館」、1970年には赤坂にクラブ「艶歌」をオープンと、ほとんど息をつく間もなく事業を展開し続けた。

転落と再起——占いとの出会い

ところが1970年、「艶歌」の経営中に10円単位から始まる詐欺に引っかかり、自宅も店も全て抵当に入れられるという壊滅的な打撃を受ける。このどん底の時期、赤坂の豊川稲荷で占い師に鑑定してもらったことが、細木と占いの接点となった。

だが冷静に見れば、彼女を救ったのは霊的な啓示ではなく、天才的な商才だった。1972年には債権者の説得に成功し「艶歌」を再開。借金をほぼ完済した後はディスコ「マンハッタン」もオープンし、「大きなゴミ袋に金を足で押し込んでも溢れるくらい」儲かっていたと後に自慢したほどの全盛期を迎えた。

島倉千代子との関わり——芸能界への進出

1977年、細木は当時数億円の借金を抱えていた演歌歌手・島倉千代子の後見人となる。この一件には暴力団「二卒会」の元相談役・堀尾が関与していたとされており、細木と堀尾は島倉の興行権を手に入れ、芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立した。細木は「光星龍」という名で社長に就任している。

1981年、毎月数百万円ずつ返済を続けてきた島倉がついに借金を全額完済すると、細木は半ば強引に「コロンビア」(現・コロムビアソングス)へ移籍させた。その後、細木は取材の場で島倉に対して悪態をつくこともあったという。二人の関係は、利害で結ばれた側面が強く、その内実は複雑なものだった。

1982年、「細木数子」の名で占い師としての活動を正式にスタートさせる。波乱の前半生を経てたどり着いた「占い師」という舞台は、ある意味では必然だったのかもしれない。

六星占術とは何か

細木が生み出した「六星占術」は、中国古来の陰陽五行思想と干支(えと)の考え方をベースに、細木自身が独自に体系化した占術とされている。生年月日から「土星人」「金星人」「火星人」などの星人タイプを割り出し、12の運気サイクル(大殺界を含む)で運命の流れを読む、というのがその基本構造だ。

特に「大殺界」という概念が世間に与えたインパクトは絶大で、「今年は大殺界だから引っ越しや転職は控えるべき」という言い回しが一般にも浸透した。この種の運命論的な語り口が、読者に強い安心感と依存心の両方をもたらしたとも言える。前述の種田論文が指摘するように、細木の本が占いを超えた「先祖への畏れ」と「運命の正当化」を読者に植え付けた点は、宗教社会学的にも興味深い現象だ。

安岡正篤との政略結婚

1983年3月、細木は昭和の知の巨人として知られる陽明学者・安岡正篤と出会う。安岡は歴代首相のブレーンとして戦後日本の政財界に深く関わり、「昭和の参謀」とも呼ばれた人物だ。その年の10月からは療養のため高野山へと移送されていた。二人が実際に共に過ごした期間は、わずか7ヶ月に過ぎない。

8月29日、安岡が「結婚誓約書」を書いたとされており、この頃から安岡家側は細木との接触を避け始めた。10月4日には、安岡の実兄・高野山大僧正の堀田真快のもとへ安岡が移される。11月18日、安岡家側が婚姻無効の申し立てを行い、細木もこれに異議を唱えた。

その後、実に6年以上にわたり細木と安岡家の法廷闘争は続いた。最終的には細木が籍を抜くことで決着がついたが、細木がここまで結婚にこだわった理由は透けて見える。「陰陽学の大家」として名を馳せた安岡の妻になるということは、自身の「格」を社会的に引き上げる絶好のチャンスだったのだ。

安岡家側がその本意を見抜いていたからこそ、頑として拒んだのだろう。細木が自著で繰り返し安岡の名を引用し、権威付けに利用したことは事実であり、神楽坂の事務所には「財団法人安岡正篤顕彰記念 細木数子事務所」という表記さえあったとされている。

細木が執着していたのは安岡という人間ではなく、その名声と権威という「肩書き」だった——そう考えれば、彼女の生涯を貫く一本の線が、ぼんやりと浮かび上がってくるように思える。

参考ホームページ・文献等

CiNii Research - 占いの宗教への変容:https://cir.nii.ac.jp/crid/1520290885347399424

国立国会図書館サーチ - 占いの宗教への変容:https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I5297710

東京大学 - 近代日本における占いとメディア:https://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2000/20.html

明治大学リポジトリ - 現代日本の占いの分類と機能:https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/9323/files/kyoyodezainkenkyu_9_23.pdf

富山大学 - スピリチュアリティの興隆をどう捉えるか:http://www.med.u-toyama.ac.jp/seishinkango/info/psych_59-5-8.pdf

名古屋大学リポジトリ - スピリチュアリティとほんとうの自己:https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/media/public/2009/matsuura.pdf

Wikipedia - 細木数子:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B0%E6%9C%A8%E6%95%B0%E5%AD%90

Wikipedia - 六星占術:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%98%9F%E5%8D%A0%E8%A1%93

J-GLOBAL - 研究者情報 種田博之:https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901020448170186

CiNii 図書 - 細木数子魔女の履歴書:https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB24203921

J-STAGE - 占いの諸類型とその特質:https://www.jstage.jst.go.jp/article/religionandsociety/1/0/1_KJ00006476845/_article/-char/ja/

立教大学リポジトリ - 雑誌マイバースデイ読者投稿欄の分析:https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/12059/files/AN00026486_58_08.pdf

CiNii Research - 細木数子の黒い真実:https://cir.nii.ac.jp/crid/1130000798158566784

中央公論 - 占いは世界のモデル化:https://chuokoron.jp/culture/119892.html

青弓社 - 占いをまとう少女たち書籍情報:https://www.seikyusha.co.jp/bd/isbn/9784787234476/

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