真霊論-厄年

厄年

序論:厄年という人生の羅針盤

我々日本人の精神性の深層に、古来より脈々と受け継がれてきた一つの習俗がある。それが「厄年」である。現代社会がどれほど科学技術の光に照らされようとも、この人生の節目に対する畏敬の念は、今なお多くの人々の心に根強く息づいている。厄年とは、単なる不吉な年回りを指し示す迷信ではない。それは、人生という航海において、誰もが必ず遭遇するであろう嵐の時期を予見し、心と体の備えを促す、先人たちが遺した霊的な羅針盤なのである。

科学的根拠がないことは、論を俟たない。しかし、この習俗が現代に至るまで命脈を保ち続けているという事実そのものが、その存在意義を雄弁に物語っている。厄年とされる年齢は、奇しくも社会的役割の変化、家庭環境の変動、そして心身の変調が重なりやすい時期と一致する。キャリアの転機、結婚、出産、親の介護、そして自身の健康の衰え。そうした人生の試練が訪れた時、「これは厄年だからだ」という文化的な共通認識は、個人の苦悩を「私一人の失敗」から「誰もが通る共有された試練」へと昇華させる装置として機能してきた。それは、過剰な自己責任論から個人を解放し、内省と周囲への感謝を促す、極めて高度な心理的セーフティネットなのである。

本稿では、この厄年という深遠なる文化を、単に俗信として切り捨てるのではなく、その歴史的淵源、精神的構造、そして世界各地の類似した風習との比較を通して、そこに秘められた普遍的な叡智を解き明かしていく。これは、「転ばぬ先の杖」として大難を小難に、小難を無難にと祈る、日本人の霊性の核心に触れる旅となるであろう。

淵源を巡る旅:陰陽道と古の俗信

厄年の起源を遡る旅は、我々を平安の雅なる時代へと誘う。この習俗が一朝一夕に生まれたものではなく、大陸から伝来した思想と日本古来の信仰が、長い歳月をかけて複雑に絡み合い、醸成されたものであることは、数多の古文書が示している。

その歴史は古く、紫式部の『源氏物語』や『宇津保物語』といった平安文学の最高峰にも、厄年を意識し、物忌みをする貴族たちの姿が描かれている。これは、少なくとも当時の宮廷社会において、厄年がすでに深く浸透した共通観念であったことの証左である。その思想的根幹を成したのが、古代中国から伝来し、日本で独自の発展を遂げた「陰陽道」であったことは、ほぼ間違いない。安倍晴明に代表される陰陽師たちが操る天文、暦、そして森羅万象の吉凶を占う術は、貴族社会の意思決定を左右するほどの力を持っていた。厄年という概念もまた、この陰陽道の宇宙観から派生したと考えるのが自然なのだ。

しかし、その形成過程は単一ではない。少なくとも三つの異なる思想の潮流が合流し、現在の厄年の原型を形作ったと考えられる。第一に、「干支に基づく十二年周期」の考え方である。天禄元年(970年)に成立したとされる教養書『口遊』には、すでに厄年として13歳、25歳、37歳といった12年ごとの年齢が記されており、自らの生まれ年の干支が巡ってくる周期を人生の節目と捉える思想が根底にあったことが窺える。

第二に、「太一定分(たいつじょうぶん)」に代表される、より専門的な陰陽道の占術である。これは、天帝神とされる星「太一」の運行に基づいて特定の災厄の年を算出するものであり、武家の棟梁たる源実朝が21歳の厄年を祓うために陰陽師に祈祷させたと『吾妻鏡』に記されているように、干支周期とは別の系統で忌むべき年が存在した。

そして第三の潮流が、近世、特に江戸時代に庶民の間で広まった「語呂合わせ(語呂合わせ)」による解釈である。男性の大厄である42歳は「死に」、女性の33歳は「散々」、19歳は「重苦」に通じるという、音の響きに凶兆を見出す考え方だ。これは、難解な陰陽道の理論を知らずとも、誰もが直感的に理解し、記憶できるという点で、絶大な伝播力を持った。諸国を巡る陰陽師たちが、この覚えやすい語呂合わせを一種の「方便」として用いることで、厄年の観念は貴族や武家社会の専有物から、広く庶民の間にまで浸透していったのである。複雑な宇宙観が、覚えやすい言葉遊びへと形を変える。この過程こそ、一つの思想が文化として大衆に根付いていく典型的な姿なのだ。

「厄」と「役」の二重性:災禍の年か、聖なる役割か

厄年を語る上で、その核心に横たわる「やく」という言葉の二重性を見過ごすことはできない。我々は通常、「やく」を災厄の「厄」と捉え、病、事故、離別といった不運を想起する。しかし、この言葉にはもう一つの意味、すなわち共同体における重要な務めを意味する「役」という側面が隠されているのである。厄年とは、単に災いが降りかかる受動的な期間ではなく、新たな社会的・神聖な役割(役)を担うべき重要な画期であった、とする説は極めて示唆に富む。

日本各地の古い祭礼に目を向けると、神輿の担ぎ手や祭事の重要な役職を、その年に厄年を迎えた者たちが務めるという風習が数多く見受けられる。これは一見、矛盾しているように思えるかもしれない。なぜ、最も「穢れ」や「不運」に近いとされる人間を、神聖な儀式の中核に据えるのか。しかし、ここにこそ、日本人の霊性の深奥が隠されている。

古来、人生の節目、すなわち移行期にある人間は、霊的に不安定で、ある種の危険な力を帯びた存在と見なされてきた。この状態が「厄」の正体である。一方で、その不安定さゆえに、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の境界に立ち、神仏に近い存在とも考えられた。つまり、「厄」を帯びた者こそが、神と交信するに最もふさわしい資格を持つとされたのである。

したがって、厄年の者に神事における重要な「役」を与えることは、一種の霊的な柔術であった。その危険なエネルギーを、祭礼という厳格な型の中に封じ込め、共同体の安寧と豊穣を祈る力へと転化させる。個人に降りかかるかもしれない災厄を、神への奉仕という形で祓い、共同体全体の祝福へと変える。この時、「厄」を祓う行為と「役」を果たす行為は、完全に一体化するのだ。

この構造は、社会的な役割分担においても同様であった。男性が42歳で地域の寄合の重役や神社の氏子総代といった役職に就き、女性が33歳で姑から家事の一切を取り仕切る主婦の座を譲り受けるといった慣習は、厄年が個人の成熟を社会的に公認し、新たな責任(役)を委ねる通過儀礼であったことを示している。厄年とは、忌み嫌われるだけの期間ではなく、人生の新たなステージへと足を踏み入れるための、厳粛なる戴冠式でもあったのだ。

厄を制する作法:厄除け、厄払い、厄落としの儀礼

厄年という霊的な試練に直面した時、我々の祖先はただ無為に恐れるだけではなかった。彼らは災厄を制御し、乗り越えるための多様で精緻な儀礼体系を築き上げてきた。それらは大きく「厄除け」「厄払い」、そして「厄落とし」の三つに分類することができる。これらは似て非なるものであり、それぞれが異なる霊的論理に基づいている。

まず「厄除け(やくよけ)」は、主に仏教寺院で執り行われる儀礼である。これは、これから訪れるであろう災厄を、仏の広大無辺なる慈悲と加護によって未然に防ぎ、退けるという「予防」的な意味合いを持つ。その代表的な作法が、燃え盛る炎に供物を捧げ、祈りを捧げる「護摩祈願」である。護摩の炎は、我々の内なる煩悩を焼き尽くすとともに、その煙は天上の諸仏に届き、我々の祈りを伝えるとされる。

対して「厄払い(やくはらい)」は、神道の神社で行われるのが一般的だ。こちらは、すでに自身に降りかかっている、あるいは付着してしまった罪や穢れ、不浄なものを祓い清めるという「浄化」の儀礼である。神職が「祓詞(はらえことば)」を奏上し、「大麻(おおぬさ)」と呼ばれる祓具を左右に振ることで、我々の身に纏わりついた邪気を文字通り「払い」去るのである。

そして、これら制度化された宗教儀礼とは別に、庶民の間で広く行われてきたのが「厄落とし(やくおとし)」と呼ばれる一連の民間習俗である。これは、自らの「厄」を物理的に切り離し、他者や他の場所へ移すという、呪術的な発想に基づいている。例えば、四辻(よつつじ)のような境界的な場所に、自分の年の数だけ包んだ銭や豆、あるいは櫛や手ぬぐいといった身につけていたものを意図的に「落として」くる行為がそれにあたる。厄を物に託し、身代わりとして捨てることで、災厄との縁を切ろうとしたのである。

また、親族や知人を招いて盛大な宴会を催すことも、重要な厄落としの一つであった。これは、共に飲食をすることで、主催者一人に集中している重い厄を、集まった人々が少しずつ分かち持って帰ってくれる、という考え方に基づいている。個人の厄を共同体で分担し、その負担を希釈する。ここに、相互扶助を重んじる日本人の精神性を見ることができる。これらの儀礼は、厄年という見えざる脅威に対し、人々がいかに能動的に、そして創造的に立ち向かってきたかの証なのである。

日本列島の多様性:沖縄の「トゥシビー」に見るもう一つの厄年

日本の厄年文化が一枚岩でないことを最も鮮やかに示しているのが、琉球諸島、すなわち沖縄に伝わる独自の風習「トゥシビー」である。本土の厄年が、陰陽道や語呂合わせなど複数の要素が混淆した複雑な体系を持つ一方、沖縄のトゥシビーは、より純粋な形で古代の思想の面影を留めており、災厄を祓う儀礼と長寿を祝う祭事が美しく融合した、独自の文化を育んできた。

最大の違いは、その年齢の数え方にある。本土の厄年が男女で異なり、不規則な年齢で設定されているのに対し、沖縄のトゥシビーは、男女の区別なく、自身の生まれ年の干支が巡ってくる12年ごとに訪れる。これを「生年(うまれどし)」と呼び、数え年で13歳、25歳、37歳、49歳、61歳、73歳、85歳、97歳がその年にあたる。これは、大陸から伝わった干支思想の原型を、より色濃く残した形態と言えるだろう。

儀礼の中心は、寺社への参拝だけでなく、各家庭内での祈りにある。トゥシビーを迎えた者は、家の安寧を司る火の神(ヒヌカン)と、祖先の霊が宿る仏壇(トートーメー)に、特別なご馳走を供え、家族の無病息災と繁栄を祈願するのである。

そして、トゥシビーの最も注目すべき特徴は、年齢を重ねるごとにその意味合いが「厄除け」から「長寿祝い」へと華麗に転換していく点にある。若年のうちは慎むべき厄年とされるが、数え61歳以降のトゥシビーは「祝い年(ウワイドゥシ)」と呼ばれ、盛大に祝福される長寿の節目となるのだ。

その頂点に立つのが、数え97歳で行われる「カジマヤー」である。この年齢になると人は童心に返るとされ、色鮮やかに飾られたオープンカーに乗った主役が、玩具の風車(カジマヤー)を手に、地域を挙げての盛大なパレードで祝福される。これは単なる長寿祝いではない。12年周期で訪れる数多の厄(トゥシビー)を乗り越えてきた生命への、共同体からの最大限の賛辞であり、畏敬の念の表れなのだ。潜在的な危険の年を、共同体の喜びと生命賛歌へと昇華させる沖縄のトゥシビーは、厄年という文化が持つ豊かで多様な可能性を我々に教えてくれる。

世界に響き合う年齢の節目:本命年、三災、そして土星回帰との比較

特定の年齢を人生の重要な節目、あるいは注意すべき危険な時期と見なす思想は、決して日本固有のものではない。世界に目を向ければ、文化や宗教の垣根を越えて、驚くほど類似した観念が存在することに気づかされる。これらの風習を比較検討することは、厄年という習俗の背後にある、人類に共通する普遍的な心理や生命のリズムを浮かび上がらせるだろう。

地域 呼称 根拠 対象年齢・周期 風習・対策
日本本土 厄年 (Yakudoshi) 陰陽道、語呂合わせ等の複合 "男性: 25, 42, 61歳 女性: 19, 33, 37歳 (数え年)" 寺社での厄除け・厄払い、厄落としの宴、贈答品
沖縄 トゥシビー (Tushibī) 干支 (十二支) "男女共通: 12年ごと (13, 25, 37歳…)" 家庭での御願 (ウグァン)、61歳以降は長寿祝い (カジマヤー)
中国 本命年 (Běnmìngnián) 干支 (十二支) 男女共通: 12年ごとの生まれ年の干支の年 赤い下着や装飾品を身につけることで厄を祓う
韓国 三災 (Samjae) 仏教思想、干支 9年周期で特定の干支3つが3年間災難に遭う 最初の1年を最も警戒し、慎重に過ごす
西洋占星術 土星回帰 (Saturn Return) 惑星 (土星) の公転周期 約29.5年周期 (28-30歳頃、57-59歳頃) 人生の試練と成長の時期と捉え、自己と向き合う

中国には「本命年(ベンミンニェン)」という風習がある。これは沖縄のトゥシビーと同様、自らの生まれ年の干支が巡ってくる年を指すが、祝い年ではなく、むしろ災いに遭いやすい不吉な年とされる。この年に当たる人々は、魔除けの力があるとされる「赤色」の下着やアクセサリーを一年間身につけることで、邪気を祓い、身を守ろうとするのである。

お隣の韓国には「三災(サムジェ)」という考え方が存在する。これは9年周期で、特定の三つの干支グループが、3年間にわたる災厄の時期に入るというものだ。特に最初の1年目が最も危険とされ、人々はこの期間、大きな決断や新しい挑戦を避けて慎重に過ごすという。

そして、文化の系譜を遠く離れた西洋占星術の世界に、驚くべき符合が見られる。「サターンリターン(土星回帰)」である。試練、制限、責任を象徴する惑星である土星は、約29.5年かけて天球を一周する。そして、人が生まれた時に土星が位置していた場所へ、再び土星が戻ってくる時期が、人生の大きな転換期とされているのだ。

一度目のサターンリターンは28歳から30歳頃に訪れる。これはまさに、青年期が終わり、社会的な責任を負う真の大人へと脱皮を迫られる試練の時であり、結婚、転職、自己の確立といったテーマと向き合うことになる。二度目は57歳から59歳頃。これは、社会的キャリアの集大成と、老いへの移行期にあたり、自らの人生を振り返り、次世代へ何を遺すかを問われる時期なのだ。

日本の厄年、特に女性の33歳や男性の25歳、42歳が一度目のサターンリターンの時期と重なり、61歳の還暦が二度目のそれとほぼ一致することは、単なる偶然として片付けるにはあまりにも出来すぎている。東洋の陰陽道も、西洋の占星術も、異なる言語とシンボルを使いながら、人間がその生涯で経験する共通の心理的・社会的危機を、正確に指し示しているのである。これは、古代の人々が、文化や場所を越えて、生命に刻まれた普遍的なリズムを鋭敏に感じ取っていたことの何よりの証左と言えよう。

結論:人生の節目を生きる叡智

我々は、厄年という古の習俗を巡る旅を通して、その起源が単一ではなく、陰陽道、干支思想、そして民間信仰が複雑に織りなす壮大なタペストリーであることを確認した。また、「厄」が災厄であると同時に、共同体における神聖な「役」を担う画期であったという二重性が、この習俗に深い奥行きを与えていることも明らかになった。沖縄のトゥシビー、中国の本命年、韓国の三災、そして西洋のサターンリターン。世界各地に響き合うこれらの風習は、人生の節目に潜む危機と成長の機会を、人類が普遍的に認識してきたことを示している。

結論として、厄年とは、決して非科学的な迷信として過去の遺物の中に葬り去られるべきものではない。それは、人生の転換期という避けがたい現実に、意味と秩序を与え、個人が独りで抱え込むことなく、共同体の支えの中で乗り越えていくために生み出された、極めて洗練された「文化的な技術」であり、生きるための叡智の結晶なのである。

現代において、厄年を機に人間ドックを受けたり、生活習慣を見直したりする人々は多い。その行為は、古人が物忌みをし、神仏に祈りを捧げた心性と、本質において何ら変わるものではない。自らの有限な生命と向き合い、心身を清め、未来への備えをする。厄年という羅針盤は、時代を超えて我々に、より深く、より丁寧に生きることを促し続けている。それこそが、この古にして新しい習俗が持つ、不変の価値なのである。

【資料】日本における厄年

日本における厄年とは、その歳を迎えると何かしらの不幸・困難・災い等が、本人もしくは近親者の身に起こる、とされる年齢を指す。ここであえて「日本における」と記述したのは、厄年は諸外国にもあり、国によって厄年の考え方、年齢設定、厄除け方法等は、後述するように各国によってまちまちだからである。日本においては、平安時代から厄年という概念が生まれているが、これは陰陽道の陰陽師たちによって生み出されたとされている。
現代に伝わる日本の一般的な厄年の設定(数え年で計算する)は、以下の通りである。

●男性
前厄24歳 本厄25歳 後厄26歳
前厄41歳 本厄42歳 後厄43歳
前厄60歳 本厄61歳 後厄62歳

●女性
前厄18歳 本厄19歳 後厄20歳
前厄32歳 本厄33歳 後厄34歳
前厄36歳 本厄37歳 後厄38歳

上記のうち特に男性の42歳、女性の33歳は「大厄」と呼ばれ、凶事や災難に遭う率が非常に高いとされ、厄除けの儀式等を受ける人も多いようである。また「前厄」とは、厄の前兆が現れるとされる年。「後厄」とは、厄が薄らいでいくとされる年であるが、本厄と同様に注意すべき年齢とされている。これらの現行の厄年に関する設定は、江戸時代に確立されたものが継承されていると考えられている。ただし、「厄年」の信憑性に関しては、科学的な根拠はまったく無く、しいて根拠を挙げるなら占術・数秘術的根拠からのものである。

《や~よ》の心霊知識