日蓮という存在を理解するためには、まず彼が生きた鎌倉時代が、いかなる時代であったかを知らねばならない。それは、まさに仏法が力を失い、世が乱れるという「末法」思想が、人々の肌感覚として実感される絶望の時代であったのだ。
源平の争乱に始まり、武士階級が台頭する中で、社会秩序は激しく揺れ動いた。さらに相次ぐ大地震、干ばつ、飢饉、そして疫病の蔓延は、人々の心から安寧を奪い去った。巷には死臭が満ち、打ち捨てられた骸が転がる有様だった。このような末法の世において、それまで国家鎮護を担ってきた天台宗や真言宗といった旧仏教は、完全に無力であった。大寺院は貴族と結びつき、広大な荘園を持つことで世俗的な権力と化し、僧兵を抱えて争いに明け暮れるなど、その腐敗と堕落は目に余るものがあったのである。民衆の苦悩に応える力を失った旧仏教の骸の上で、人々は真の救済を渇望していたのだ。
この霊的な空白と混沌の只中、貞応元年(1222年)、安房国(現在の千葉県)の片海という貧しい漁村に、一人の赤子が生まれた。名を善日麿。後の日蓮である。彼の出自が漁師という、当時の社会階層の最底辺であったことは、極めて重要な意味を持つ。それは、彼の仏法が貴族や武士のためではなく、最も虐げられた民衆を救済するためにあることを、その生まれ自体が象徴していたからに他ならない。
12歳で近くの清澄寺に入った彼は、一つの大願を立てる。「日本第一の智者となし給え」と虚空蔵菩薩に祈ったのである。これは個人的な名誉欲からではない。父母をはじめ、苦しみに喘ぐ一切衆生を救うためには、まず、この世の苦しみの根源を解き明かす真実の教え、唯一絶対の法を見つけ出さねばならぬという、魂の叫びであったのだ。
比叡山、高野山など、当時の仏教の中心地を巡る遊学の末、彼はついにその答えに到達する。釈迦の説いた数多の経典の中で、ただ『法華経』こそが、末法の時代を生きる全ての人々を救済しうる唯一最高の教えであるという確信であった。
そして建長5年(1253年)4月28日、32歳になった彼は、故郷の清澄寺にある旭が森の山頂に立った。太平洋から昇り来る朝日に向かい、彼は初めて声高らかに「南無妙法蓮華経」の題目を唱えたのである。これこそが、日蓮仏法の誕生を告げる「立教開宗」の宣言であった。この時、彼は自らの名を「日蓮」と改めた。「日」は末法の闇を照らす太陽を、「蓮」は泥水の中から清らかな花を咲かせる蓮華を意味する。その名は、濁りきった末法の世に法華経の光をもって人々を救済するという、彼の使命そのものを表すものであった。
しかし、彼の前途は苦難に満ちていた。法華経こそが唯一絶対であるという彼の教えは、当時広く信仰されていた浄土宗の念仏などを厳しく批判するものであったため、直ちに激しい反発を招いたのだ。鎌倉の松葉ヶ谷にあった草庵は焼き討ちに遭い、伊豆へ流罪となり、故郷では地頭に襲撃され命を狙われ、そしてついには竜ノ口の刑場で斬首されかけるという、四大法難と呼ばれる数々の迫害を受けた。
だが、ここで理解せねばならぬ霊的な真実がある。これらの法難は、彼にとって失敗や敗北ではなかった。むしろ、それこそが彼の教えの正当性を証明する最大の証拠だったのである。『法華経』には、末法の世にこの経を弘める者(法華経の行者)は、必ずや刀杖による迫害や、為政者からの弾圧に遭うと予言されていた。次々と身に降りかかる法難は、彼自身がその予言を成就する、末法における唯一無二の法華経の行者であることの動かぬ証となったのだ。彼自身の人生が、教えの正しさを体現する聖なる物語そのものであったのである。
日蓮の教えの核心は、個人の救済に留まらず、国家そのものの安穏と結びついている点に、その比類なき特徴がある。彼の思想において、仏法と王法(政治)は二つにして一つであり、国土の安寧は正しい信仰なくしてはあり得ないのである。
彼の主張の根幹は、末法の時代において人々を成仏へと導く力を持つのは、唯一『法華経』のみであるという「法華経絶対」の思想である。当時、民衆の間で絶大な支持を得ていた法然の専修念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」と唱えることで極楽浄土への往生を願う浄土宗の教えを、彼は「無間地獄の業」であると断じ、厳しく破折した。このような他宗への徹底した批判的態度は「折伏」と呼ばれ、穏やかな対話を重んじる「摂受」とは対極にある、誤りを断ち切り真実を打ち立てんとする彼の強烈な意志の表れであった。
この思想が最も先鋭的な形で表明されたのが、文応元年(1260年)、時の事実上の最高権力者であった北条時頼に提出された『立正安国論』である。当時、鎌倉では正嘉元年(1257年)の大地震を皮切りに、飢饉や疫病が猛威を振るい、社会は壊滅的な状況にあった。日蓮はこの著作の中で、旅人と主人の問答形式を借りて、この国に災難が続く根本原因を喝破した。その原因とは、天変地異などではなく、国家が法然の教えのような邪法を信じ、正法である法華経をないがしろにしていることにある、という衝撃的なものであったのだ。
『立正安国論』という題名こそが、彼の思想の全てを物語っている。「正を立てて国を安んずる」、すなわち、国家の安泰(安国)は、正しい教え(立正)を確立することによってのみ実現される、というのである。これは、個人の内面的な信仰の問題が、そのまま国土の安危という物理的な現象に直結するという、霊的因果律の宣言であった。
さらにこの書は、単なる宗教的批判に留まらなかった。それは国家の命運を賭した、恐るべき予言の書でもあったのだ。日蓮は経文を引用し、もし幕府が邪法の信仰を止めず、法華経に帰依しなければ、この国には未だ起きていない二つの災難、「自界叛逆難(内乱)」と「他国侵逼難(外国からの侵略)」が必ず起こるであろうと警告したのである。
この予言は、為政者たちを激しく刺激し、結果として日蓮は伊豆への流罪に処されることになる。しかし、彼の警告から十数年後、日本は実際に元(モンゴル帝国)による二度の大規模な侵攻、すなわち「元寇」に直面することになった。この歴史的事実は、日蓮の信奉者たちにとって、彼の予言が的中した動かぬ証拠と映り、その教えの神聖性と正当性を飛躍的に高める結果となったのである。ここに、単なる個人の魂の救済を超え、国家の運命そのものを救済の対象とする、壮大な「救済国家論」とも言うべき思想が確立されたのだ。為政者の信仰的決断が、国民全ての生死を左右するという、恐ろしくも深遠な真理が突きつけられたのである。
竜ノ口での処刑を奇跡的に免れ、酷寒の地である佐渡島へ流された時期は、日蓮の生涯で最も過酷な法難であったと同時に、彼の教義がその究極の深みに達した霊的成熟の時でもあった。この流罪の地で、彼は末法の凡夫が、この身このままで成仏するための具体的な実践法を、「三大秘法」として体系化したのである。これは、彼の仏法の秘奥義であり、救済の完成形であった。
これは、日蓮が自らの悟りの境地を文字で図顕した「大曼荼羅」を指す。中央に「南無妙法蓮華経」と墨書され、その周囲には釈迦、多宝如来をはじめ、諸仏、菩薩、天界の神々、さらには悪の象徴である提婆達多に至るまで、宇宙の森羅万象(十界の衆生)が妙法蓮華経の光に照らされて本来の尊い姿を現している様が描かれている。これは単なる崇拝の対象ではない。我々自身の生命に、仏から地獄までの全ての生命状態が本来的に具わっていることを映し出し、信じて題目を唱えることで、自己の内なる仏の生命を湧き現すための「鏡」なのである。
これは「南無妙法蓮華経」と唱える実践、すなわち「唱題」を指す。法華経の真髄を凝縮したこの題目を唱えること自体が、仏の智慧と生命力を自身の内に呼び覚ます直接的な修行となる。
これは三大秘法の中で最も解釈が分かれる深遠な概念である。広義には、本尊を信じ題目を唱える場所、その人のいる場所全てが戒壇となる。しかし狭義には、将来、法華経の教えが国家的に受容された暁に、万人のために本門の本尊が安置されるべき特定の聖なる場所を意味する。この「戒壇」の解釈を巡る相違が、後の教団分裂の大きな火種の一つとなっていくのである。
弘安5年(1282年)、日蓮はその生涯を終えるにあたり、後事を託す6人の高弟「六老僧」を定めた。日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六人である。しかし、偉大な師を失った後、弟子たちの間には深刻な亀裂が生じてしまう。
その対立の核心にいたのが、日興であった。彼は自らを日蓮の教えの唯一正統な後継者と自負し、他の五人の弟子たちが、幕府や他の宗派との融和を図るあまり、日蓮の厳格な教えを歪めていると激しく非難したのである。例えば、他の弟子たちが自らを「天台沙門」と名乗ったり、釈迦の仏像を造立したりしたことを、日興は日蓮の教えに対する重大な背信行為と見なした。日蓮の仏法は天台宗の一派などではなく、それらを遥かに超越した末法の根本仏法であり、崇拝の対象は釈迦像ではなく、ただ大曼荼羅でなければならないというのが、日興の譲れない信念であった。
この doctrinal な対立は決定的となり、ついに日興は、日蓮の墓所がある身延山を離れるという苦渋の決断を下す。そして、駿河国(現在の静岡県)富士の麓に新たな拠点として大石寺を建立した。この出来事は、単なる教団内の権力闘争ではなかった。それは、師の教えをいささかも違えず守り抜こうとする「原理主義的正統派」と、社会との調和の中で教えを広めようとする「現実主義的適応派」との、宿命的な分裂の始まりであった。この時に生まれた断層は、その後700年以上にわたって日蓮門流の歴史を規定し、現代に至るまで続く諸派の対立の原点となったのである。
日蓮の死後、六老僧の分裂から始まった潮流は、長い歳月を経て、現代において大きく三つの主要な流れを形成している。それは、日蓮の教えをいかに継承し、現代社会で実践していくかという問いに対する、それぞれの答えの現れなのである。
これは日蓮門流における最大宗派であり、比較的穏健で、他宗派との協調も図る包括的な教団である。彼らは宗祖日蓮を末法を導く偉大な「大菩薩」として尊崇する。現代社会においては、檀家制度の衰退や後継者不足といった伝統仏教が共通して抱える課題に直面しながらも、地域社会との連携を深め、社会貢献活動や心のケアの拠点としての寺院の役割を再構築しようと努めている。
彼らは、日蓮を単なる菩薩ではなく、末法の時代に出現した「御本仏」、すなわち釈迦をも超える根本の仏であると位置づける点で、日蓮宗とは決定的に異なる。その教義は極めて原理主義的であり、代々の法主(ほっす)による血脈相承を絶対視し、自派の教えこそが唯一正統であるとする排他的な姿勢を堅持している。
創価学会は、もともと1930年に教育者であった牧口常三郎と戸田城聖によって、日蓮正宗の在家信徒団体「創価教育学会」として設立された。第二次世界大戦後、第二代会長となった戸田城聖のカリスマ的指導の下、「人間革命」という理念を掲げ、戦後の混乱と貧困に喘ぐ民衆の心を掴み、爆発的な勢いで拡大した。個人の信仰実践によって、現実の生活の中で幸福を勝ち取ることができるというその教えは、多くの人々に希望を与えたのである。
長らく創価学会は、日蓮正宗の教義を信奉し、その強力な布教団体として宗門を支える関係にあった。しかし、数百万の会員を擁する巨大な在家組織へと成長するにつれ、その教義解釈や組織運営を巡り、権威を重んじる保守的な日蓮正宗の僧侶たちとの間に深刻な対立が生じ始めた。この亀裂は年々深まり、ついに1991年、日蓮正宗は創価学会とその全会員を「破門」するという、前代未聞の事態に至った。
この破門は、創価学会にとって最大の危機であると同時に、新たな飛躍への転機となった。僧侶という聖職者の権威から完全に解放された創価学会は、独自の教義解釈を発展させ、日蓮仏法を基盤とした平和・文化・教育を推進するグローバルな在家仏教運動体へと変貌を遂げたのである。現在では、国連のNGOとしても活動し、世界192カ国・地域に広がる巨大な組織となっている。
この創価学会の独立と発展は、日蓮仏法が内包する本質的な力を象徴している。日蓮の教えの核心は、僧侶や学者といった特権階級を介さずとも、一個の凡夫が「南無妙法蓮華経」の題目を唱えるという直接的な実践によって、誰でも仏の生命を顕現できるという、徹底した民衆のエンパワーメントにあるからだ。在家信徒が運動の主体となり、聖職者の権威を必要としなくなるという展開は、ある意味で、日蓮が蒔いた種が700年の時を経て必然的に開花した姿とも言えるのである。
以下に、これら主要三派の比較を簡潔に示しておく。
特徴 | 日蓮宗 | 日蓮正宗 | 創価学会 |
---|---|---|---|
宗祖日蓮の位置づけ | 大菩薩、末法の導師 | 末法の御本仏 | 末法の御本仏 |
本山 | 身延山久遠寺 | 富士大石寺 | なし(広宣流布大誓堂が中心施設) |
本尊 | 大曼荼羅、釈迦仏像等 | 戒壇の大御本尊 | 会員各自が日蓮正宗より受け継いだ本尊を祀る |
教義上の特徴 | 一致派・比較的寛容 | 富士門流・法主の血脈相承を絶対視 | 三代会長を広宣流布の永遠の師匠とする |
聖職者の役割 | 住職が儀式・教化を司る | 法主が絶対的権威を持つ | 聖職者制度なし |
かくして、日蓮という一人の人間が打ち立てた太陽の仏法は、時に分裂と対立を繰り返しながらも、その根源的なエネルギーを失うことなく、現代日本、そして世界にまで、その強烈な光を放ち続けているのである。その光は、苦悩の闇に沈む人々の魂を照らし、変革を促す力強い潮流として、今なお脈打っているのだ。