
飛鳥の世から脈々と続いた陰陽師の歴史。その長い流れの中で、とりわけ鮮やかな足跡を残した人物たちを、ここに紹介したい。なお本稿には、正統な史書では陰陽師として分類されていない人物や、厳密には陰陽師とは呼べない人物も登場する。そうした方々については、「秘史において重要な位置を占める人物」あるいは「陰陽師の歴史に多大な影響を与えた人物」として、参考としてお読みいただければ幸いである。また宮廷陰陽師については、プロフィールの末尾に陰陽寮における役職履歴が判明している場合はあわせて記した。「陰陽頭」とある場合は、陰陽師たちを束ねる長官として在位したことを示している。
ここでは、奈良時代以前——陰陽師の夜明け前とも言える時代の重要人物を紹介する。この時代は、大陸の知識と経験を持つ渡来人たちが縦横無尽に活躍した時代であり、日本生まれの宮廷陰陽師が頭角を現すのは平安時代以降を待たねばならない。
秦河勝は、聖徳太子のブレーンとして時代の表舞台に立った豪族である。もちろん、陰陽師であったと明記する史料はどこにもない。しかし、朝鮮半島からの渡来人である秦氏が、神道や陰陽道にさまざまな影響を与えたことはほぼ疑いなく、また後に陰陽師の宗家のひとつとなる「賀茂氏」との関係も深い。そのため本稿では、陰陽師の歴史に大きな影響を与えた人物として、まず最初にその名を記しておく。
ここからは俗説の世界に入る。かつて佐伯好郎(1871〜1965年)は「秦氏は日本に景教を持ち込んだ」と指摘したが、のちに「景教ではなく別の思想体系」と説を修正した。その「別の何か」こそが「迦波羅(かっばーら)」——すなわちユダヤ神秘思想のカバラである、とする仮説がある。飛鳥時代以降の神道形成や神社建立に秦河勝が深く関わっていることを思えば、陰陽道の成立にカバラの要素が混じり込んでいる可能性はまったく否定できない。また、秘史としての陰陽道では、カバラの使い手を「漢波羅(かんぱら)」と呼び、それがそのまま正史における陰陽師を指すという仮説も存在する。もしこれが正しければ、後に陰陽師として頭角を現す賀茂氏はすべて、秦氏によってカバラを授けられた漢波羅である——そう読み解くこともできるだろう。さらには、秦姓を名乗れない陰陽師が歴代に多数いたとする研究者もおり、その代表例として後述の蘆屋道満(あしやどうまん)の本名を「秦道満」とする説が挙げられている。
陰陽道の正統な歴史において「陰陽道の開祖」とも称されることのある人物である。602年(推古天皇10年)10月、百済から日本へと渡来した観勒は、その後の陰陽寮創設の礎となる知識を持ち込んだ。天文地理書・元嘉暦の暦本・陰陽五行思想にもとづく遁甲方術・摩登伽経を携えて来日し、聖徳太子をはじめ選ばれた34名の弟子たちに直接講じた。『日本書紀(巻第二十二)』には、「陽胡玉陳(やこのたまふる)」に暦法を、「大友(大伴)村主高聡(おおとものすぐりたかさと)」に天文を、「山背日立(やましろのひたて)」に遁甲方術を授けたと記されている。これらの弟子たちが陰陽寮の高位官僚となり、黎明期の陰陽師育成を担っていく。元嘉暦の暦本は604年、聖徳太子によって官暦として正式に採用された。なお観勒はその後、624年(推古天皇32年)に日本初代の僧正にも任命されており、宗教・学術両面にわたる影響力の大きさは計り知れない。
百済にルーツを持つ帰来人。608年(推古天皇16年)、小野妹子の第1回遣隋使に随行して海を渡り、そこから実に24年にわたって隋に留学した。仏教・儒学・陰陽五行思想・天文・易学など広く諸学を修めた博識の人であり、637年(舒明天皇9年)に現れた流星を「天狗の吠声」と解釈し、639年(舒明天皇11年)の彗星出現を飢饉の前触れと予言したことで知られる。こうした天体観測を通じた占術は、後の陰陽師にとってもきわめて重要な職掌となっていく。知識をひとつの場所に独占させず、広く学問を伝えようとしたその姿勢は、日本の陰陽道発展に確かな礎を築いた。
陰陽師の基本スキルのひとつである式占に卓越し、主に外交を絡めた政策立案のブレーンとして活躍した人物。日本と百済・高句麗の私的外交記録である『日本世記』を著したことでも知られており、現存する書物の中で初めて「日本」という国号を使用した人物として歴史に名を留めている。
統一新羅からの渡来僧・行心(幸甚)の子。流罪となり飛騨国の寺へ移された父の意志を引き継ぎ、後の陰陽師へと受け継がれる祓いの術などを残した。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の怨霊を鎮めたという話が『今昔物語』に伝わっており、霊的な力を持つ呪術師としての側面が色濃い人物である。
平安以降に日本の陰陽家宗家が確立されていく、その遠景がおぼろに見えてくるのが奈良時代である。ただし、氏姓制度の変化によって姓が変わるケースも多く、すべてが明確に系統づけられているわけではない。
統一新羅系の渡来人の家系。「大津連意毘登」とも呼ばれる。後の大津宿禰大浦(おおつのすくねおおうら)に至るまで、代々陰陽師として朝廷に重用され続けることになる大津氏の祖である。出家して僧「義法」として活動する一方、統一新羅への大使として派遣され、帰国後は勅命により還俗して大津連首の名を賜わった。従五位上(721年・養老5年)。陰陽頭兼皇后宮亮(730年頃)。
奈良朝を代表する学者・公卿であり、日本における陰陽道の先駆者ともいわれる人物。「陰陽道の祖」と呼ぶ説もある。唐への留学中に陰陽道に関わる諸学を幅広く習得し、帰国後は聖武天皇のもとで呪禁師(じゅごんし)が所属していた典薬寮を廃止して陰陽寮との統合を推し進めた。「大衍暦」の採用にも深く貢献している。「右大臣吉備公傳」や『岡山県通史』などによれば、吉備真備は後述する賀茂氏の先祖にあたるという説もある。藤原広嗣の怨霊を鎮めた逸話(今昔物語)でも知られ、唐留学の同期には阿倍仲麻呂らがいた。官位は正二位・勲二等・右大臣。
奈良時代に名を残した渡来人系の陰陽師。持統天皇・草壁皇子に重用され、天武朝では大津皇子と石川郎女の密通を占いで見破ったことで知られている。この件を知った大津皇子が詠んだ和歌(万葉集・巻2・第108首)には「大船の津守が占に告らむとは兼ねてを知りて我が二人寝し」とあり、陰陽師に見つかってしまうと知りつつも逢引を重ねた、という皇子の複雑な心境が透けて見える。養老5(721)年には陰陽方面で賞賜された6名のうち第2番目に挙げられており、その実力のほどが窺われる。
752年(天平勝宝4年)、藤原清河の遣唐使に留学生として随行して禅行を修めた人物。どちらかといえば陰陽師というより禅定家としての側面が強い。帰国後に従五位下に叙され「藤原恵美」朝臣の姓を賜ったが、764年(天平宝字8年)の恵美押勝の乱に連座して隠岐国に流された。その後、禅定家としての功績が認められて赦免、再度従五位下となり778年(宝亀9年)には従五位上に叙せられた。陰陽頭(791年・延暦10年)。この藤原氏のケースに見られるように、陰陽頭の地位は必ずしも陰陽師としての実績によるものではなく、官僚としての統率力が買われた例もある。
代々陰陽師を輩出してきた大津家の嫡流。藤原仲麻呂にその稀有な才能を見出されて仕えるが、やがて仲麻呂が謀反を企てていることを察知し、朝廷に密告する決断を下した。この功績により「恵美押勝の乱」後、正七位上から従四位上という異例の大躍進を果たし、「連」姓から「宿禰」姓を与えられた。しかしその後、和気王らとの謀反に加担したとして官職を剥奪され、「宿禰」姓も「連」姓へと戻された上で日向守へ左遷されることになる。この時の最高実力者は仏僧・道鏡であり、祈祷の力をも持する道鏡が陰陽師を排斥しようとした意図が透けて見える事例でもある。従四位上。陰陽頭兼安芸守(771年)。
奈良時代、遣唐使の留学生として海を渡り、唐の科挙——今でいう上級公務員試験——に合格して唐の高官にまで上り詰めた人物。その後、帰国の機会をことごとく逃し続け、最終的に日本の土を踏むことはなかった。中国名「朝衡」。後年、安倍晴明が自らの祖先として仲麻呂の名を挙げることになるが、史実はそれとは異なるようである。
修験道の開祖にして、民間陰陽師の先駆け的な存在。正確には在家の信者である優婆塞(うばそく)であるため、法師陰陽師とは厳密に区別される。それでも、その驚異的な霊力で当時の朝廷陰陽師や天皇をも脅かしたとされる役小角ほど、謎と伝説に彩られた人物はほかにいない。634年(舒明天皇6年)に大和国葛上郡に生まれ、16歳で志明院を創建、翌年には元興寺で孔雀明王の呪法を学んだとされる。葛城山や熊野、大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得して修験道の基礎を築いたとも伝わる。荒唐無稽ともとれるエピソードは世に多く知られているため、ここでは陰陽師との関係に絞って触れておきたい。
役小角は「賀茂役公」とも呼ばれるように賀茂氏の先祖にあたる人物であり、後に陰陽師宗家として確固たる地位を築く賀茂氏の血筋には、小角の仙人的な素地と、極秘に継承された叡智が受け継がれていたと推察される。出自についても謎が多い。室町時代の書物『修験修要秘決』には、「母には夫なく霊夢を感じて誕生す」という、聖母マリアの処女懐胎を彷彿とさせる一文がある。江戸期の改編によるものという見方もあるが、この一文がユダヤ神秘思想カバラとの関連を暗示するものだという解釈もある。本稿では、役小角を「賀茂氏の呪術・妖術面において正統陰陽道にはない秘伝を託した人物」として位置づけておく。
日本人陰陽師が最も活躍し始めた時代がここ平安時代である。この時代を通じて、陰陽師の系統が賀茂氏と安倍氏(後の土御門家)を中心とする構造が確立されていく。
謀反罪を2度問われながら、いずれも恩赦によって免れたという波乱の経歴を持つ人物。延暦年間に陰陽頭を務めたという記録が残るほか、782年(延暦元年)には氷上川継の乱への連座により隠岐介へ左遷されたとも記録されている(続日本紀)。平安前期の暦道の大家、大春日朝臣眞野麻呂の祖父にあたるという説もある。陰陽頭兼天文博士(767年・神護景雲元年〜805年・延暦24年)。
文徳・清和天皇の時代に活躍した陰陽師。氏姓は刀岐直、のちに滋岳朝臣。子に川継・興継がいたとする系図が残る。これまでの渡来系陰陽師から世代が変わり、日本人として初めて陰陽師の職を担った「宮廷陰陽師の始祖」とも言われる人物である。式占・遁甲に優れた大家であり、「世要動静教」「指掌宿曜経」「滋岳新術遁甲書」「六甲六帖」「宅肝経」など多数の書を著したとされるが、残念ながら現存するものはない。独自の呪術・方術によって虫害駆除のための祓いや雨乞い祭祀を行ったとも伝わる。『今昔物語』の「滋岳川人、地神に追はるる語」には、安倍安仁と川人が地神を怒らせて追われるも、川人が得意の隠形の術で身を隠して難を逃れたという印象的なエピソードが残っている。官位は従五位上・陰陽頭(874年)。
清和・宇多天皇の頃に活躍した陰陽師。滋岳川人の弟子にして、怪僧と称された道鏡と同族という異色の出自を持つ。式占の達人として知られ、夢占いによる予言が高く評価されていた。『今昔物語』の「天文博士弓削是雄、夢を占ふ語」では、藤原有陰に招かれて近江へ赴いた是雄が穀蔵院の使者・伴世継と出会い、悪夢に苦しむ世継に占いを授けて九死に一生を得させるという場面が描かれている。陰陽師(864〜873年)。陰陽允(873〜877年)。陰陽権助(877〜885年)。陰陽頭(885年)。
役小角の子孫にして安倍晴明の師として名高い。陰陽道にとどまらず天文道・暦道など多岐にわたる分野に通じており、その占術——とりわけ「射覆(せきふ)」と呼ばれる、隠されたものの中身を見通す技——は驚異的な的中率を誇ったという。村上天皇が水晶念珠を見えない箱に入れてその中身を占わせたところ、忠行は形状まで正確に言い当てたという(三善為康「朝野群載」)。単なる占術では届かないはずの情報まで的中させたところを見ると、何らかの透視能力が備わっていた可能性も否定できない。
『今昔物語集』には、忠行が帰宅途中に幼少の安倍晴明に呼び止められて牛車の外を見ると百鬼夜行と遭遇、霊的結界とされる「穏形術(おんぎょうじゅつ)」を使って難を逃れたという伝説が記されている。また、940年に平将門の乱・藤原純友の乱が勃発した際、当時の権力者・藤原師輔に密教高僧ですら知らなかった「白衣観音法」を進上したことで、陰陽師として正式に認められることになった。「白衣観音法」は空海が唐から持ち帰った真言密教の修法であり、空海以前に忠行がこれを知りえた事実は、先祖・役小角から受け継がれた叡智の深さを示唆している。息子の賀茂保憲を育て、さらに安倍晴明という後世に輝く陰陽師を世に送り出したこと——それが忠行の最大の功績といえるだろう。官位は従五位下・丹波権介。
賀茂忠行の息子にして、平安中期を代表する陰陽師。安倍晴明とは4歳違いとほぼ同世代だが、史実においては晴明の師である。その霊的な素養は幼少期から際立っていた。今昔物語には、父・忠行がある貴人の家への祓いから帰宅する途中、幼い保憲が「祭壇の前で供え物を食ったり遊んだりしている異形の者」を目撃したと語ったとある。驚いた忠行は、わが子の並外れた能力を悟り、その場で陰陽道を伝授することを決意したという。
また今昔物語には保憲と晴明が射覆による透視試合を行う場面があったとされるが、残念ながら現存していない。源頼経の日記『左経記』では「当朝は保憲をもって陰陽の規模となす」と高く評価されており、神護寺での三方五帝祭や八省院での属星祭を主宰するなど、陰陽道の祭祀を一手に担う存在となった。嫡子の賀茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道を伝授し、後世に続く賀茂氏・安倍氏の二家世襲体制の礎をここに築いた。官位は従四位上・陰陽頭。
歴史上、最も著名な陰陽師であり、後の土御門氏の祖である。セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星)と呼ばれる呪符を用い、人形(ひとかた)を媒介として「青龍」「勾陣」「六合」「朱雀」「騰蛇」「天乙貴人」「天后」「大陰」「玄武」「大裳」「白虎」「天空」の十二神将からなる式神を自在に駆使したと伝えられる。
しかし晴明もまた、役小角と同様に出自についての謎が多い人物だ。父は系図によれば大膳大夫・安倍益材とされ、物語・伝説上の父は安倍保名とされている。問題は母親である。浄瑠璃では母を「狐の化身・葛の葉(くずのは)」とするが、これはあくまで後世の脚色であり、実際の母の名も素性も今なお明かされていない。
映画などで描かれる晴明像は若く才気あふれる姿だが、史実は少し異なる。陰陽寮に晴明が初めて姿を見せたのは961年、すでに41歳のことであった。しかも当初の肩書きは陰陽師ではなく「天文得業生(てんもんとくごうしょう)」——いわば特待生として、である。それでも登庁後の晴明の出世は約束されていたかのように速く、967年には47歳で天皇への勘文(提案書)を差し出し、972年52歳で天文博士、986年66歳で天文博士正五位下の地位を得た。さらに995年には陰陽寮を離れ、天皇直属の秘書室である蔵人所(正五位上)へと昇進する。この異例の厚遇を晴明の純粋な才能だけで説明しきれるかといえば、疑問も残る。
ひとつの仮説として、晴明の母「葛の葉」が賀茂氏の家系であるという説がある。つまり晴明は賀茂氏の隠し子ならぬ「秘蔵っ子」であり、陰陽道の秘儀と天皇家の守護という重要な使命をあらかじめ帯びて世に送り出された人物だった——という読み方である。もしそうであれば、幼少期に忠行と道中を共にしていた謎も、その後の異例の出世も、さらには41歳までの「空白の年月」が修行期間に充てられていたことも、すべて自然に腑に落ちてくる。そして晴明の登場は、天文道(天文博士)を安倍氏が、暦道(暦博士)を賀茂氏がそれぞれ世襲するという、両家による寡占体制の完成を意味した。
晴明の呪術的な核心として注目されるのが「式神の術」である。もし陰陽道に秘かにカバラの要素が流れ込んでいたとすれば、その召還法的な魔術体系が式神に反映されていた可能性がある。また、江戸期から昭和初期まで岡山県上原(かんばら)地区に存在した晴明の子孫とされる「上原(かんばら)大夫」という陰陽師集団の存在も示唆的である。この「かんばら」という読みが、カバラの使い手を指す「漢波羅(かんぱら)」に由来するという説は、陰陽道とカバラの関係を示すひとつの傍証となりうる。
賀茂忠行の孫であり、賀茂保憲の長男。祖父・父の血を引き、高い能力を持つ陰陽師であったと伝わる。なぜ賀茂氏の家学である陰陽道を分割してまで安倍氏に宗家の一角を与えたのかを光栄自身も疑問に思っていたらしく、晴明と争論したという(『続古事談』)。「御堂関白記」や「栄花物語」によれば、藤原道長が晴明と光栄の両者を相補的に用いて相談や占いを行わせていたことも記されており、二人の陰陽師はライバルであると同時に、当代随一の権力者をも支える欠かせない双璧だったようだ。予知能力においても「的中すること掌を返すが如し」と絶賛されたという。暦博士・天文博士・大炊頭・主計頭などを歴任。官位は従四位上・右京権大夫。
安倍晴明の長男。賀茂光栄と並ぶ存在として父亡き後も活躍し、藤原道長をはじめ天皇・貴族のために占いや祭祀を執り行った。五龍祭・四角祭の執行、具平親王の物の怪を賀茂光栄と共に鎮めたことなどが史料に残る。とりわけ印象的なのは『古今著聞集』に記された地震予知の逸話だ。医師の丹波雅忠と酒を飲んでいた吉平が、話に夢中で杯の酒を飲まない友人に向かって「早く飲まないと地揺れが来ますよ」と告げると、そのすぐ後に実際に地震が起きたという。陰陽博士、陰陽助、官位は従四位上。
安倍晴明の次男。1017年、安倍家として初めて陰陽頭に就任した。晴明本人がさらに上位の官職にスキップ昇進していたため、吉昌をして陰陽頭就任は「家初」とも言うべき意味を持つ。それまで賀茂氏や大中臣氏などの名門が独占してきた陰陽頭の世襲がここに終焉を迎え、安倍氏(後の土御門家)と賀茂氏の二家による支配体制が実質的に始まった瞬間でもあった。文博士・陰陽博士・主計頭・陰陽頭などを歴任。官位は従四位上。
安倍晴明の四代目の子孫。陰陽頭として鳥羽上皇に仕えた。その折、上皇に取り憑いたとされる妖狐・玉藻前と呪術で対決したと伝わる(神明鏡)。玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)であり、「保元の乱」や武家政権成立のきっかけを作ったとされる史実が、この妖狐伝説の下敷きになっている。注目すべきは、この討伐ストーリーの中で泰成が「軍師」として機能している点だ。武家社会の到来を目前に控えたこの時代、陰陽師には呪術師としての顔に加え、「戦術家」という新たな役割が加わりつつあったことが感じられる。
安倍泰成の子であり、安倍晴明の五代目の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用され、1182年に陰陽頭に就任した。卜占の天才として知られ、平家滅亡とその時期を予言して的中させたことから「指神子(さすのみこ)」と呼ばれた。また、肩口に落雷した際に袖こそ焦げたものの、奇跡的に無傷であったという伝説も残っている。
安倍吉平の子であり、安倍晴明3代目の子孫。1055年に陰陽頭へ就任した際、賀茂氏に暦博士を、安倍氏に天文博士をそれぞれ代々独占世襲させることを正式に定めた。この取り決めは、二家による陰陽師支配体制をより強固なものとする、歴史的な決断となった。
蘆屋道満は朝廷に属さない陰陽師——いわゆる播磨流の民間系陰陽師として、庶民や貴族に雇われて活動した人物である。安倍晴明の宿命のライバルとして多くの伝説に名を刻み、「式神対決」のエピソードは特に有名だ。晴明の霊符「セーマン(五芒星)」に対し、道満は九字と格子で構成される「ドーマン」を用いたことでも知られている。二人がライバル視されるようになったのは、晴明が関白・藤原道長と懇意であったのに対し、道満がその政敵・藤原顕光に仕えることが多かったためだとされる。顕光から呪詛を依頼された道満は晴明に見破られ播磨へ流されたとも伝わるが、その後も子孫が瀬戸内海沿岸の英賀・三宅方面に移り住み、陰陽師の業を継いだとされる(室町時代の播磨地誌「峰相記」)。
歌舞伎や文楽の演目「芦屋道満大内鑑」では晴明の引き立て役たる悪役として描かれることが多い道満だが、晴明自身が道満の「九字」を自己の呪術に取り込んでいるという事実は興味深い。二人の関係は単純なライバルではなく、互いの神秘的な叡智を研ぎ合う間柄だったとも考えられる。道満の本名については諸説あるが、「秦道満」とする説が一部で支持されている。もしそれが正しければ、秦氏——賀茂氏——安倍晴明という系譜から、道満と晴明は同じ秘教的な流れを汲む同志であったことになる。セーマンとドーマンは、まさに陰陽の関係をなす対の思想・術だったのかもしれない。全国各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の名が残り続けているのは、道満の伝説がいかに広く人々の心に刻まれていたかを物語っている。
播磨国の僧侶資格を持つ法師陰陽師。蘆屋道満と同一人物ではないかとする説もある。『今昔物語』『宇治拾遺物語』では、海賊に略奪された船主のために陰陽術を使って荷を取り戻した話や、安倍晴明の力量を試そうと式神を童子として物体化させて呪術対決に臨んだものの、逆に式神たちを晴明に隠されてしまい、平身低頭して返してもらった後は晴明を師と仰ぐようになったというエピソードが伝わっている。その際に晴明は「自分の式神を使役するのは容易いが、人の式神を操ることはそう簡単ではない」と格の違いを静かに諭したという。
周知のように鎌倉時代以降、平安期のように「名が後世まで語り継がれる」陰陽師は生まれにくくなる。武家社会への移行とともに陰陽師の立ち位置も変化したためだ。しかしそれでも、史書等にその名をとどめた陰陽師は少なくない。ここでは代表的な人物を紹介する。
安倍家の末裔。六壬神課(りくじんじんげ)に精通し、1200年9月7日、後鳥羽上皇の命で催された射覆において見事に的中させた記録が残っている。六壬神課の卦を読んで「光沢のある水器で亀の形をしている」と見立てたところ、実際に中に収まっていたのは「亀の形をした硯」だったという。また天文博士として地震に関する記述として「地の動くは、龍の動くところなり」という勘文を寄せており(『山槐記』)、当時の陰陽師が地震を龍の動きとして直観していたことをうかがわせる。
晴明の14代目の子孫。陰陽師として史上初めて「公卿」の地位に達し、後の土御門家の基礎を築いた人物である。「従二位非参議刑部卿」という、かつての陰陽師には前例のない高位にまで上り詰めた。その名声は没後も庶民の間に広まり、陰陽師全般を指す俗語として「ありよ(ありよう)」という言葉が使われるほどとなった。有世以降の安倍氏を土御門家と呼ぶのが実態に即した呼称とする見方が現在では有力である。
安倍有世の末裔にして、安倍氏の子孫として初めて「土御門」を正式に名乗った陰陽師とされる。1513年(永正10年)頃、戦乱を避けて若狭国名田庄へ移ったことにより、以降の子孫は若狭と京都を往来することになったと伝わる。1525(大永5)年には有宣の長男・有春が従四位陰陽頭に就任している。なお、正式に土御門を称する時期については1562年(永禄5年)の有脩の代からとする説もある。
賀茂在方の子にして、事実上、賀茂家最後の陰陽師である。室町時代、賀茂在方以降の賀茂氏は「勘解由小路家」を称した。在富は後継者として嫡男の在昌を育てようとしていたが、在昌がキリスト教の洗礼を受けたと知り廃嫡。次いで甥の在種を養子に迎えるが、後に在富自身がこれを暗殺して家名を絶ったとも伝わる(病死説もあり、真相は謎に包まれている)。在昌の子・在信も陰陽師となったものの、その活動は歴史の表舞台に現れることなく消えていき、江戸時代に幸徳井家(賀茂氏の庶流)が再興を試みたが、かつての力はすでになかった。こうして在富の死をもって、平安期より長々と続いた賀茂氏の陰陽師支配と暦道宗家としての歴史は、静かに幕を下ろしたのである。
勘解由小路在富の嫡男。クリスチャン名「マノエル・アキマサ」で、キリシタン陰陽師として歴史に異彩を放つ存在である。日本随一の天文学者でありながら、キリシタンと共に流入してきた西洋科学に魅せられてキリスト教への改宗を決意した。フランシスコ・ザビエルから直接洗礼を受け、京都で最初のキリシタンの一人となったとされる。また暦道家としての落胆もあった。陰陽寮が作成する京暦の精度を疑った織田信長によって在昌と土御門有脩が呼び出され、三島暦との日月食精度を比較するよう命じられた結果、軍配は三島暦に上がってしまう。これにより武家からの陰陽寮への信頼は大きく失墜した。それでも公家からは在昌の才は高く評価され続け、父の怒りを買いながらも宮廷への出仕が許されたという。
土御門家陰陽道の最後の当主にして、陰陽寮に所属した宮廷陰陽師の歴史における最後の人物である。明治政府が発足したこの時代、陰陽家の役割はほぼ暦作りにのみ限られていた。晴雄は太陽暦の導入に強く反対したが、その反発は逆に明治政府の陰陽寮・陰陽道・陰陽師排斥への動きを加速させるだけだった。1870年、晴雄の死を機に陰陽寮は廃止され、陰陽道も禁止とされた。飛鳥の世から1000年以上にわたって続いた、長い陰陽師の歴史に——静かに、しかし確実に——幕が降ろされた瞬間だった。
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J-STAGE - 陰陽道史研究の現状と課題:https://www.jstage.jst.go.jp/article/shi...
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J-STAGE - 秦氏とカバラに関する一考察:https://www.jstage.jst.go.jp/article/rel...