
1973年に公開された映画『エクソシスト』は、単なる一介のホラー映画として片付けられるべき作品ではない。それは一つの文化現象であり、現代社会における悪と超自然的なるものへの認識を根底から揺さぶった、霊的事件とも呼ぶべき存在なのである。この映画の真の恐ろしさは、その準ドキュメンタリー的なタッチにあった。信じ難い出来事を、あたかも現実であるかのように冷徹な視点で描き出したことで、観客はフィクションと現実の境界線を見失ったのだ。
この作品の原作はウィリアム・ピーター・ブラッティの同名小説であり、その小説自体が1949年にアメリカで実際に起きたとされる悪魔憑依事件に着想を得ていた。この「事実に根差している」という背景こそが、本作に比類なきリアリティと説得力を与え、人々の心の奥底に眠る原始的な恐怖を呼び覚ます根源となったのである。公開当時、劇場では失神者やパニックに陥る者が続出し、一部の都市では満員の劇場に入ろうとする群衆が暴徒化し、警察が催涙ガスを使用する事態にまで発展したという記録が残っている。これは、単なる映画鑑賞の域を遥かに超えた、集団的な霊的体験であったと言えよう。
『エクソシスト』が社会に与えた衝撃の深層には、1960年代から70年代にかけて進行した世俗化への反動という側面が見て取れる。伝統的な権威、とりわけ宗教的権威が疑われ、科学的合理主義が社会の隅々まで浸透していく中で、人々はかつて自明であったはずの霊的世界観を失いつつあった。そのような時代背景の中、この映画は近代医学や精神医学が悪魔という古来の脅威の前で完全に無力であるという冷厳な事実を突きつけた。そして、その唯一の対抗策が、最も古風で権威的なカトリック教会の儀式である「エクソシズム(悪魔祓い)」であると示したのである。これは、近代社会が古い信仰を捨て去ったことで、もはや理解も対抗もできない悪に対して無防備になったのではないか、という深層的な不安を刺激する強力な文化的カウンターナラティブとして機能したのだ。映画が描いた恐怖は、我々が失った世界観の向こう側に存在する、根源的な闇の存在を再び人々の意識に刻み付けたのであった。
映画『エクソシスト』の製作背景には、「呪われた映画」という伝説が常に付きまとってきた。もちろん、その一部は巧みなマーケティング戦略であった可能性も否定できない。しかし、その伝説を単なる宣伝文句として片付けることはできない。何故なら、撮影現場では実際に不可解な悲劇や災難が頻発し、監督ウィリアム・フリードキンの常軌を逸した演出方法が、フィクションと現実の境界を曖昧にするほどの真に迫った苦痛と恐怖の雰囲気を醸成していたからである。
製作中、主要なセットが原因不明の火災で焼失したにもかかわらず、憑依された少女リーガンの寝室だけが無傷で残るという不可解な出来事が起きた。また、主要キャストやスタッフの近親者が次々と亡くなり、映画公開前に作中で死ぬ役を演じた俳優二名が実際に亡くなるという悲劇も発生した。これらの出来事は、単なる偶然として片付けるにはあまりにも数が多く、不気味な符合を見せていた。
しかし、この映画に漂う異様な緊張感の真の源泉は、超自然的な呪いというよりも、フリードキン監督自身が生み出した「人為的な地獄」にあったと言える。彼はリアリズムを追求するあまり、俳優たちに精神的、肉体的な苦痛を与えることを厭わなかった。例えば、リーガンの母親役を演じたエレン・バースティンが突き飛ばされるシーンでは、監督は彼女に知らせずにワイヤーで力任せに引っ張り、彼女は脊椎に生涯残るほどの重傷を負った。スクリーンに響き渡る彼女の苦痛に満ちた叫び声は、演技ではなく本物だったのである。さらに、俳優たちの純粋な驚きの表情を撮るために、セットで予告なくショットガンを発砲することもあったという。リーガンの部屋のシーンで俳優たちの吐く息が白くなるのは、セット全体を氷点下まで冷凍したためであり、キャストとクルーは極寒の中で撮影を強いられた。
このようにして作り出された環境下では、俳優たちの恐怖はもはや演技ではなかった。それは監督によって巧みに引き出された、本物の不安と苦痛の発露であった。フリードキンの狂気的なまでのリアリズムへの執着は、撮影現場そのものを呪われた空間へと変貌させた。一連の不幸な出来事を、超自然的な呪いという物語に帰結させることは、この製作が内包していた真のトラウマを理解し、処理するための心理的な防衛機制であったのかもしれない。監督が作り出した恐怖が、結果として映画そのものに霊的な憑依を招いた。そう解釈することも可能なのである。
映画『エクソシスト』の恐怖の根源には、1949年にアメリカで実際に起きたとされる悪魔祓いの事件が存在する。この事件は、心霊研究史において極めて重要な事例であり、その真相を理解することは、映画が描いた恐怖の正体を探る上で不可欠である。
事件の中心人物は、映画で描かれた12歳の少女リーガンではなく、「ローランド・ドウ」あるいは「ロビー・マンハイム」という仮名で知られる14歳の少年、ロナルド・ハンケラーであった。彼の本名は、2020年に彼が亡くなるまで固く秘匿されていた。メリーランド州コテージシティに住むドイツ系のルター派の家庭に育った彼は、心霊主義に傾倒していた叔母を深く慕っていた。そして、その叔母から教えられたウィジャ・ボード(降霊術に用いる文字盤)に興味を示したことが、全ての始まりであったとされる。叔母の死後まもなく、彼の周囲で不可解な現象が頻発し始めるのである。
記録によれば、現象は壁や床からの引っ掻くような音、原因不明の水が滴る音から始まった。やがて、彼が眠るベッドが激しく揺れ動き、家具や物が空中を飛び交うポルターガイスト現象へとエスカレートしていく。家族は医師や精神科医に助けを求めたが、原因は全く分からなかった。事態はさらに深刻化し、少年の身体には引っ掻き傷やみみず腫れで「LOUIS」や「hell」といった文字が浮かび上がるようになった。彼は普段の人格とは異なる、低く唸るような声で冒涜的な言葉を吐き、十字架などの聖なるものに対して激しい嫌悪と暴力を示すようになった。
追い詰められた家族は、カトリック教会に助けを求めた。数週間にわたり、複数の神父が関与し、メリーランド州からミズーリ州セントルイスの大学病院やアレクシアン・ブラザーズ病院へと場所を移しながら、30回以上もの悪魔祓いの儀式が執り行われた。その過程で少年は神父の鼻を折り、ベッドのスプリングを壊して別の神父を切りつけるなど、激しい抵抗を見せたという。
最終的に、1949年4月18日の夜、最後の儀式において少年は「彼は去った」と告げ、全ての現象は終息したと記録されている。この一連の出来事は、儀式に立ち会ったレイモンド・ビショップ神父によって詳細な日記に記録されており、これが後にブラッティの小説の基となったのである。
ただし、映画で描かれた最も衝撃的なシーン、すなわち首が360度回転する、緑色の吐瀉物を吐き出す、空中浮遊するといった現象は、原作小説および映画における創作であった。事実は小説よりも奇なりと言うが、この事件においては、小説と映画が事実をさらに増幅させ、世界的な神話へと昇華させたのである。一個人の家庭内で起きた私的な霊的危機が、神父の日記から新聞記事へ、そしてベストセラー小説から全世界を震撼させる映画へと変容していく過程は、現代メディアがいかにして超常現象の物語を増幅し、再生産する力を持つかを示す好例と言えよう。我々が「悪魔憑き」として想起するイメージは、もはや実際の事件そのものではなく、メディアによって再構築された恐怖の神話なのである。
映画『エクソシスト』が描く壮絶な悪魔との闘いは、観客に強烈な印象を植え付けたが、現実のカトリック教会におけるエクソシズムは、ハリウッド的な混沌とは一線を画す、極めて厳格かつ体系化された法的な儀礼である。それは個人の神父が独断で行う呪術ではなく、イエス・キリストから使徒たちへ、そして教会へと継承されたとされる権威に基づく、教会の公式な祈りとして位置づけられている。
エクソシズムの正式な規則と手順は、『ローマ典礼儀礼書』の一部である『エクソシズムと関連する種々の祈願について』( De Exorcismis et Supplicationibus Quibusdam )と題された儀式書に詳細に定められている。この儀式書は、悪魔祓いが神聖な儀式としての尊厳を保ち、迷信や誤用から守られるための防波堤となっている。
エクソシズムを執行するまでのプロセスは、極めて慎重に進められる。まず最も重要な段階は、対象者が本当に悪魔に憑依されているのか、それとも精神的あるいは身体的な病に苦しんでいるのかを徹底的に見極めることである。教会は近代医学および精神医学の診断を最優先し、専門家による診察を義務付けている。これは、精神疾患を悪魔憑きと誤診し、適切な医療を受ける機会を奪うという悲劇を避けるための、現代社会における教会の自己防衛策でもある。全ての科学的な可能性が排除され、なおかつ後述する霊的な徴候が明確に認められる場合にのみ、教会は悪魔憑きの可能性を検討し始めるのである。
儀式を執行できるのは、叙階された司祭(エクソシスト)の中でも、人格、学識、信仰の深さにおいて優れ、なおかつ所属教区の司教から個別の案件ごとに明確な許可を得た者のみに限られる。これは、儀式の権威を保証すると同時に、無許可の悪魔祓いによる混乱を防ぐための厳格な階層的管理体制である。
儀式そのものは、教会や礼拝堂といった聖別された空間で、十字架や聖母マリア像を掲げ、可能な限り少人数の立会人のもとで執り行われる。エクソシストは、聖水を振りまき、聖書の朗読、祈祷、そしてリタニ(連願)を唱える。そして、イエス・キリストの名において、悪魔に対してその名を明かすよう問い質し、対象者から立ち去るよう厳かに命じるのである。この儀式は一度で終わるとは限らず、時には数ヶ月、あるいは数年にわたって繰り返し行われることもある、忍耐を要する霊的な闘いなのだ。
このように、現代のカトリック教会におけるエクソシズムは、古代から続く霊的闘争の信仰と、近代的な官僚主義的・法的手続きが融合した、非常に興味深いハイブリッドな構造を持っている。教会は悪魔の実在を神学的に確信しつつも、世俗社会からの批判や法的責任を回避するために、科学的診断という客観的プロセスを組み込んでいる。それは、懐疑主義が支配する現代において、自らの信仰と権威をいかにして維持し、正当化するかという、教会の置かれた絶妙な立場を象徴している儀礼なのである。
カトリック教会が悪魔祓いの儀式を許可するにあたり、精神疾患との鑑別は最重要課題である。そのために教会は、単なる異常行動とは一線を画す、超常的としか説明のつかない現象を「本物の悪魔憑きの徴候」として定めている。これらの徴候は、現代科学の知見では説明が困難な事象を意図的に選んでおり、科学がその限界を認める領域にこそ、悪魔の働きが存在するという教会の世界観を明確に示している。公式に認められている主な徴候は以下の四つである。
第一に、「これまで知らなかった言語(特にラテン語などの古い言語)を流暢に話したり、理解する能力」である。これは単なる錯乱状態での意味不明な発話とは異なり、文法的に正しく、かつ対象者が生涯で一度も学んだことのない言語を操る現象を指す。ローランド・ドウの事例においても、彼がラテン語で神父と対話したという記録が残っている。この現象は、通常の心理学や脳科学の枠組みでは説明がつかないため、悪魔という超自然的な知性の介在を示す強力な証拠と見なされる。
第二に、「本人の年齢や体力からは考えられない、超人的な力を発揮すること」である。屈強な大人を数人がかりでも押さえつけられないほどの怪力は、悪魔憑きの典型的な徴候とされる。これもまたローランド・ドウの事件で報告されており、彼は儀式の最中に神父を投げ飛ばし、重傷を負わせたとされる。これは、人間の身体が持つ本来の物理的なリミッターが、外部の力によって強制的に解除された状態と解釈できる。
第三に、「遠隔地で起きている出来事や、他人の秘密など、知るはずのない事柄を知っていること」である。これは霊的な知覚能力、すなわち千里眼や読心術に類する現象であり、憑依した霊的存在が持つ知識が、対象者を通じて表面化している状態と考えられる。これもまた、情報が物理的な制約を超えて伝達される現象であり、科学的説明を拒むものである。
第四に、「十字架、聖水、聖遺物といった聖なるものに対する極度の嫌悪感や冒涜的な反応を示すこと」である。悪魔が神聖なものに対して本能的な恐怖と憎悪を抱くという神学的理解に基づいている。対象者が聖なるものに触れた際に火傷のような痕ができたり、激しい痙攣を起こしたりする反応は、その存在が神の領域と相容れないものであることを示す徴候とされる。ローランド・ドウもまた、聖なる物品に対して激しい拒絶反応を示したと記録されている。
これらの四つの徴候は、教会が長年の経験則から編み出した診断基準である。それは、精神の病が引き起こす症状と、超自然的な憑依現象とを区別するための、霊的なフィルターとして機能している。教会は、科学で説明可能な現象は科学の領域に委ね、科学が沈黙せざるを得ない現象が確認された時に初めて、自らの出番であると判断するのである。悪魔の存在証明は、皮肉にも、科学的知性の限界点においてなされるのだ。
キリスト教文化圏におけるエクソシズムが、神とサタンという二元論的な世界観に基づき、絶対悪である悪魔を「追放」することを目的とするのに対し、日本の伝統的な精神世界における「悪魔祓い」は、全く異なる思想的背景を持っている。それは善と悪の対決というよりも、乱れた秩序を回復し、調和を取り戻すための儀式なのである。
神道における中心的な概念は「お祓い(おはらい)」である。神道では、災厄や不浄の原因を、絶対的な悪の存在ではなく、「穢れ(けがれ)」という一種の霊的な汚染と捉える。穢れは、死や病、罪などに触れることで生じ、神々の力を弱め、世界の活力を失わせると考えられている。したがって、お祓いの儀式は、御幣(ごへい)などを用いてこの穢れを祓い清め、対象となる人や場所を本来の清浄な状態に戻すことを目的とする。神社の境内が高波動の清浄な空間であり、穢れのような低波動の存在はそこに留まることができないという考え方も、この思想に基づいている。また、不成仏霊や荒ぶる神に対しては、「鎮魂(たましずめ)」の儀式を行い、その魂を鎮め、和ませることで災いを防ごうとする。ここには、敵対するものを滅するのではなく、鎮撫し、共存の道を探るという和の精神が色濃く反映されている。
仏教、特に真言宗や天台宗といった密教系の宗派、そして日蓮宗などでは、「加持祈祷(かじきとう)」と呼ばれる儀式が行われる。これは、仏や菩薩の持つ広大無辺な力(加持力)を借りて、真言(マントラ)や印相(ムドラー)、護摩の火などを用いて、憑依した霊や邪気を祓うものである。しかし、その根底にあるのは、憑依霊もまた輪廻転生のサイクルの中で苦しむ衆生の一人であるという仏教的な慈悲の思想である。そのため、単に追い払うだけでなく、霊を説き伏せ、供養し、成仏へと導くこと、すなわち「救済」を目的とすることが多い。
さらに、神道と仏教が融合した日本独自の信仰である修験道では、山伏(やまぶし)と呼ばれる修行者が、厳しい山岳修行によって獲得した霊的な力を用いて「調伏(ちょうぶく)」の儀式を行う。これは、不動明王のような強力な尊格の力を借りて、魔や怨敵を力で制圧し、無力化するものであるが、これもまた世界の秩序を乱す存在を調え伏せるという、調和回復の一環と見なすことができる。
このように、西洋のエクソシズムと日本の霊的儀礼の間には、その世界観において根本的な相違が存在する。前者が善と悪の終わりなき「戦争」であるのに対し、後者は世界の「調和の回復」を目指す営みなのである。この違いは、それぞれの文化が「悪」というものをどのように捉え、対処してきたかの歴史的・思想的な差異を如実に物語っている。
| 儀礼 (Rite) | 対象となる存在 (Target Entity) | 権威の源泉 (Source of Authority) | 主要な方法 (Core Method) | 最終目的 (Ultimate Goal) |
|---|---|---|---|---|
| カトリック・エクソシズム | 悪魔・悪霊 (Demon/Evil Spirit) | イエス・キリスト (Jesus Christ) | 命令・祈祷 (Command/Prayer) | 悪魔の完全な追放 (Complete Expulsion of the Demon) |
| 神道・お祓い | 穢れ・荒ぶる神 (Impurity/Restless Kami) | 神道の神々・清浄性 (Shinto Gods/Purity) | 祓い・清め (Purification/Cleansing) | 穢れの除去・調和の回復 (Removal of Impurity/Restoration of Harmony) |
| 仏教・加持祈祷 | 怨霊・不成仏霊 (Vengeful/Unsettled Spirit) | 仏・菩薩 (Buddhas/Bodhisattvas) | 読経・加持 (Sutra Chanting/Incantation) | 霊の成仏・救済 (Salvation/Enlightenment of the Spirit) |
| 修験道・調伏 | 魔・怨敵 (Demons/Enemies) | 山岳の霊力・不動明王 (Spiritual Power of Mountains/Fudo Myo-o) | 祈祷・調伏 (Prayer/Subjugation) | 霊の鎮圧・無力化 (Suppression/Neutralization of the Spirit) |
超自然的な視点から悪魔憑きを考察する一方で、この不可解な現象を人間の内的世界、すなわち心理の働きとして解釈する視点もまた、現代においては無視できない。この観点に立てば、悪魔とは外部から侵入する実体ではなく、人間の心そのものが生み出した闇の投影であると理解される。
現代医学、特に精神医学の分野では、悪魔憑きとされる現象の多くが、統合失調症、解離性同一性障害、あるいは重度のヒステリーといった精神疾患の症状として説明可能であると考えられている。ドイツで起きたアンネリーゼ・ミシェル事件は、その悲劇的な例である。てんかんと精神疾患を患っていた可能性が高い彼女に対し、教会は悪魔祓いを執行し、結果として彼女は栄養失調で命を落とした。この事件は、霊的現象と精神疾患の鑑別の困難さと、その誤りがもたらす致命的な結末を我々に突きつけている。
さらに深層心理学の観点からは、憑依状態は、個人が意識的に向き合うことのできない、深刻なトラウマ、特に幼少期の虐待体験などと深く関連しているとされる。耐え難い記憶や許されない感情(例えば親への憎悪など)は、意識の奥深くに抑圧される。しかし、そのエネルギーは消滅するわけではなく、やがて「悪魔」という人格的な形をとり、本人に代わってその怒りや苦しみを表現し始めるのである。普段は善良で従順な人物が、憑依状態になると突如として暴力的で冒涜的な言葉を吐くのは、抑圧された自己のもう一つの側面が、悪魔という仮面を被って噴出している状態と解釈できる。
また、信念の力も憑依現象において重要な役割を果たす。悪魔憑きが実在すると信じられている文化圏では、極度のストレス下にある個人が、無意識のうちに「憑依された者」という役割を演じてしまうことがある。そして、エクソシズムという荘厳で劇的な儀式は、強力な心理療法、あるいはプラセボ効果として機能しうる。罪悪感を悪魔のせいにすることで精神的な救いを得たり、儀式を通じて抑圧された感情が解放(カタルシス)されることで、症状が劇的に改善することがあるのである。
脳科学的なアプローチも、憑依に似た体験を説明する手がかりを提供している。例えば、脳の側頭葉を電気的に刺激すると、実際には誰もいないのに「誰かの気配」を感じる現象が起きることが報告されている。また、睡眠麻痺(金縛り)の状態では、恐ろしい存在の幻覚を伴うことが多く、これもまた霊的な体験として解釈されやすい。
これらの科学的解釈は、悪魔憑きの霊的な実在性を必ずしも否定するものではない。むしろ、悪魔という存在が、我々人間の精神が持つ制御不能な側面、すなわち狂気、トラウマ、そして根源的な罪悪感などを象徴する、強力な文化的メタファーとして機能していることを示唆している。その意味で、エクソシズムの儀式は、文字通りの悪魔との闘いであると同時に、自らの内なる闇と対峙し、それを克服しようとする、壮大な象徴的ドラマなのである。
映画『エクソシスト』、そしてその根底にある悪魔憑きという現象の探求を通じて、我々は多様な視点からこの根源的な恐怖の正体に迫ってきた。それは、狂気のリアリズムによって生み出された映画的事件であり、実在の少年の苦悩を神話化した物語であり、カトリック教会の厳格な儀礼によって体系化された霊的闘争であり、また日本の伝統とは異なる世界観の表れでもあった。そして同時に、人間の心が作り出す深遠な闇の投影としても理解されうるものであった。
これらの視点は互いに排他的なものではなく、むしろ重層的に存在することで、悪魔憑きという現象の複雑な全体像を浮かび上がらせる。信じる者にとって悪魔は神学的な実体であり、科学者にとっては心理学的な投影であり、そして我々一般人にとっては、存在論的な恐怖の源泉なのである。
『エクソシスト』が半世紀を経た今なお我々を惹きつけてやまないのは、この物語が、秩序と混沌、理性と狂気、そして自己と他者との間の、極めて脆弱な境界線を暴き出すからに他ならない。この物語が突きつける真の恐怖とは、究極的な自己喪失の可能性である。自らの身体、声、そして意識までもが、外部からの超自然的な力であれ、内部からの心理的な衝動であれ、得体の知れない何者かに乗っ取られてしまうという戦慄すべき可能性だ。我々は、自らが住まう「家」の、唯一の主人ではないのかもしれないという根源的な不安を、この物語は容赦なく抉り出すのである。
最終的に『エクソシスト』が我々に問い続けるのは、悪魔が実在するか否かという神学論争ではない。むしろ、その存在が何を意味するのか、という問いなのである。我々が対峙すべき真の敵は、地獄から来た悪魔なのか、それとも我々自身の魂の未踏の深淵に潜む、内なる悪魔なのか。悪魔憑きという現象は、この普遍的かつ根源的な恐怖に触れるがゆえに、時代や文化を超えて、我々の心を捉え続けるのであろう。その答えは、おそらく我々一人一人の内側にしか存在しないのである。
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