真霊論-イタコ

イタコ

イタコとは何か:その定義、語源、そして霊的役割

イタコは、日本の精神文化において特異な位置を占める存在である。その本質を理解するためには、まず基本的な定義と歴史的背景、そして日本固有のシャーマニズムにおける役割を明らかにする必要がある。

イタコの基本的な定義と呼称の由来

イタコとは、主に日本の東北地方北部で活動してきた巫女の一種であり、シャーマニズムに基づく信仰習俗上の職能者である。その最も広く知られた役割は「口寄せ」と呼ばれる降霊術や霊視によって、死者や祖霊の言葉を生きている人々に伝えることなのである。伝統的に、イタコの多くは盲目あるいは弱視の女性たちによって、その技と役割が継承されてきたのであった。

「イタコ」という呼称の語源については、いくつかの説が存在する。一つは、神に仕えることを意味する古語「斎(いつ)く」が転訛したとするものであり 、神聖な存在への奉仕という側面を強く示唆している。また、アイヌ語で「語る」「宣う」を意味する「itak」に由来するという説も有力視されている。これは、イタコが言葉を介して神霊や死者の世界と現世を繋ぐメッセンジャーとしての役割を担ってきたことを裏付けるものであろう。民俗学の泰斗、柳田國男は、「斎(イツキ)」がその原形であり、それが儀礼の形態を変容させながら神に仕え、各地を遍歴するようになった者の一部が、イタコ、エチコ、イタカなどと呼ばれるようになったと考察している。これらの語源に関する考察は、イタコが古来より「言葉」を媒介として、不可視なる世界の意思を人々に伝達する重要な機能を果たしてきたことを、明確に物語ってい。

東北地方の南部など、地域によってはオガミサマ、オナカマ、ミコサマといった類似の呼称も用いられることがあるが 、「イタコ」という言葉は、特に青森県を中心とした東北地方北部に伝わる巫女を指す場合に一般的に使用される。語源の諸説や地域による呼称の差異は、日本列島における広範な巫術文化の古層と、それぞれの地域における独自の発展の様相を示唆していると言えよう。しかしながら、いずれの呼称や語源を探っても、「言葉を伝える」「神意を仲介する」という核心的な機能は共通しており、これこそがイタコの存在意義の根幹を成していることに疑いの余地はないのである。

日本シャーマニズムにおけるイタコの特異性

日本のシャーマニズムには、沖縄のユタや各地に点在するカミサマなど、実に多様な形態の霊能者が存在している。その中でイタコが際立って特異なのは、いくつかの重要な点においてである。第一に、その担い手の多くが歴史的に視覚に障害を持つ女性たちであったという事実だ。第二に、イタコは神からの突然の啓示や召命によってその能力を発現するのではなく、師匠となるイタコに弟子入りし、数年から十数年にも及ぶ厳格な修行を通じて、口寄せをはじめとする多岐にわたる巫術を体系的に習得する「技能者」であるという点なのである。この「修行型」の伝承形態は、イタコ文化の永続性と高度な専門性を担保する上で、極めて重要な意味を持ってきたのだ。

伝統的なイタコは、その修行を終え一人前となった証として、師匠から「オダイジ」と呼ばれる免許皆伝の証書や、特殊な製法で作られた「イラタカ数珠」を譲り受けることが慣わしであった。これらの象徴的な道具の授受は、イタコの能力が個人の天賦のカリスマ性のみに依存するのではなく、確立された師弟関係というシステムと、連綿と続く系譜の中でその権威が公に認められてきたことを明確に示しているのである。イタコの「修行型」という特質は、巫術を個人の偶発的な才能のみに頼るのではなく、厳格な訓練と世代を超えた伝承によって維持可能な「職業的技能」として確立させることに成功したと言える。この点が、特に視覚にハンディキャップを持つ女性たちが、社会の中で自立し、かつ尊重される専門職として地域社会に受容されるための、強固な基盤となったと考えられるのである。

イタコの歴史的変遷:起源から盛衰まで

イタコの歴史は、日本の民間信仰の深層と、社会構造のダイナミックな変遷とが複雑に絡み合いながら紡がれてきた物語である。その起源を丹念に辿り、隆盛を極めた時代から現代における存続の危機に至るまでの軌跡を概観することは、イタコという文化現象の多層的な理解にとって不可欠な作業となる。

イタコの起源と江戸・明治期の隆盛

イタコの起源については諸説あるものの、一般的には江戸時代中期にまで遡ると考えられている。山伏とも呼ばれる山岳修行者が、その妻たちに呪術的な知識や技術を伝え、それが弟子へと伝承されていったのが一つの源流であるとする説が存在するのだ。特に青森県の南部地方においては、太祖婆(たいそばあ)という盲目の巫女が南部イタコの始祖として尊ばれており、その巫技が山伏修験の鳥林坊(ちょうりんぼう)と、その妻であり同じく盲目であった高舘婆(たかだてばあ)に伝承されたと伝えられている。そして、この鳥林坊と高舘婆が、地域の視覚に障害を持つ女性たちを組織化し、巫術を教え広めたことが、職業としてのイタコの確立に決定的な役割を果たしたとされているのである。

イタコの活動が最も盛んであったのは明治初期であり、青森県東部から岩手県北中部にまたがる南部地方を中心に、約500人ものイタコが活動していたと記録されている。この時代、近代的な医療制度が未だ十分に普及していなかった地域社会においては、人々は病気の治療や日常の様々な悩み事の解決を、医師よりもむしろイタコに頼る傾向が強かったという記録も残っている。この隆盛の事実は、イタコが単なる霊媒師としてだけでなく、地域社会における精神的な支柱として、また実生活上の具体的な問題解決にあたる相談役として、人々の暮らしに深く根付いていたことを如実に物語っている。

イタコの起源が修験道と関連付けられることは、日本の古層に根ざす山岳信仰や呪術的伝統といった、より広範な信仰体系からの影響を色濃く受けていたことを示唆している。太祖婆から鳥林坊・高舘婆へと続く系譜と、彼女らによる組織化の試みは、イタコが単なる個人的な霊能力の域を超え、一定の規範と洗練された伝承システムを持つ専門的な「職能集団」へと発展を遂げる上で、極めて重要な転換点であったと言えるだろう。これにより、イタコの技術は標準化され、広範囲に伝播し、その社会的地位を確立する基盤が築かれたのである。

盲目の女性とイタコ:社会的背景と役割

歴史的にイタコの担い手の多くが盲目または弱視の女性であったという事実の背景には、かつての日本社会における厳しい現実が存在した。食糧事情や公衆衛生の状態が劣悪であった時代においては、麻疹(はしか)などの感染症によって視力を失う子供たちが決して少なくなかったのである。そうした視覚に障害を持つ女性たちが、社会の中で自立し、生計を立てていくための道は極めて限られていた。その数少ない選択肢の一つが、イタコとなることであったのだ。男性の視覚障害者が按摩師や三味線弾きといった技能を身につけて生業とすることがあったのに対し、女性の場合は神事に関わるイタコという職能が、その受け皿としての役割を担っていたのである。

この観点から見れば、イタコという存在は、当時の東北地方の地域社会が、困難な状況に置かれた人々を支えるために生み出した、一種の「弱者救済システム」としての側面も色濃く持っていたと言えるだろう。イタコになるための修行は想像を絶するほど厳格なものであったが、それは同時に、社会的に不利な立場に置かれがちであった女性たちが、高度な専門技能を習得し、人間としての尊厳を保ちながら生きるための道でもあったのだ。地域の有力な寺社が、師匠イタコに対して鑑札を発行し、その活動をある程度管理していたという事実は 、イタコが単なる私的な活動ではなく、社会的に公認された職能であったことを明確に示している。

「盲目であること」という状態が、一般的な社会生活においてはハンディキャップと見なされがちである一方で、イタコの世界においては、逆に俗世の穢れを見ることのない清浄な存在、あるいは神仏に近い特別な感受性を持つ存在として、霊的な能力と結びつけられるという価値観の転換が存在した可能性がある。この認識が、イタコという職能を支える一つの精神的基盤となったのかもしれない。そして、その上で課される厳しい修行は、イタコの専門性を高め、その言葉や儀式に対する社会からの信頼を醸成する重要な手段として機能したと考えられるのである。

イタコの文化と精神性:日本人の死生観との響き合い

イタコの存在とその活動は、日本人の精神性の深層、特に死に対する捉え方や祖先を敬う心と、深く響き合ってきた。イタコという媒介者を通じて、人々は亡き人と繋がり、慰められ、そして生きる力を得てきたのである。その文化的背景を丁寧に紐解くことは、日本人の心の古層に触れる試みに他ならないのだ。

口寄せと日本古来の霊魂観・他界観

イタコが行う「口寄せ」の根底には、日本人が古来より育んできた独特の霊魂観が存在する。それは、肉体が滅びた後も霊魂は不滅であり、この世とは異なる次元で存在し続けるという「霊肉二元論」的な考え方である。死者の霊魂は、遺された子孫による手厚い供養を通じて徐々に浄化され、やがては個別の霊から集合的な祖霊へと昇華し、家や地域を守護するカミになると信じられてきた。また、死者の魂は山へと向かうという「山中他界観」、あるいは海に近い地域では海の彼方へ旅立つという「海中他界観」も、日本人の死生観に深く刻み込まれている観念である。青森県下北半島に位置する恐山のような霊場が、イタコの活動と強く結びつけられてきたのは、こうした日本の伝統的な山岳信仰や他界観と決して無縁ではないのである。

イタコは、この世とあの世、生者と死者という二つの世界を繋ぐ媒介者として、このような日本人の深層心理に脈々と流れる信仰のあり方を、具体的な儀礼を通じて具現化してきた存在と言えよう。人が死ぬと、まず荒々しいエネルギーを持つ怨霊(荒魂)となり、遺族による鎮魂の儀式や時間の経過を経て、次第に穏やかな和魂へと浄化され、最終的には神へと転化するという考え方 もまた、イタコによる口寄せが、単に死者の言葉を聞くだけでなく、死者の霊を慰め、鎮めるという重要な儀礼的意味合いを持つことを強く示唆しているのである。

恐山がイタコの口寄せの場として、これほどまでに象徴的な意味を纏うのは、単にイタコたちがそこに集うからという理由だけではない。古来より「死者の魂が集まる場所」として人々に信じられてきたその「場の力」、聖地の持つ霊的な磁場と、イタコの持つ霊媒能力とが感応し合うことで、口寄せという儀式の神聖性や実在感が高められるからであろう。これは、日本人が自然の中に神霊の働きを見出し、特定の場所に特別な意味を付与してきたアニミズム的な自然観や他界観と深く結びついている現象なのである。

祖先崇拝とグリーフケアとしてのイタコ

イタコの行う口寄せは、亡くなった近親者の魂を自らの身に降ろし、遺された家族に直接その言葉を伝えることを通じて、遺族の深い悲しみや喪失感を癒す「グリーフケア」としての極めて重要な機能を果たしてきた。愛する人を突然失ったことによる心の空白、言葉に尽くせぬ虚無感を抱える人々にとって、イタコという存在を介して故人と再び「対話」し、伝えられなかった思いを交わし合えたと感じる体験は、死という厳粛な事実を受け入れ、心の整理をつけて新たな一歩を踏み出す上で、計り知れないほどの大きな助けとなることがあるのだ。

このイタコの役割は、日本社会における祖先崇拝の篤実さとも深く関連している。お盆の時期に故郷へ帰省し墓参りを欠かさないといった習慣や、日常的に仏壇に手を合わせる行為は、目に見えない祖霊との繋がりを大切にし、その加護を信じる日本人の心性の表れに他ならない。イタコは、まさにそうした祖霊との具体的なコミュニケーションを可能にする稀有な存在として、地域社会の中で長らく頼りにされてきたのである。さらに、かつてのイタコは、死者の口寄せに留まらず、嫁姑間の葛藤や夫婦関係の悩み、健康上の不安など、集落の人々が抱える様々な身近な問題について相談に乗る、いわば地域のカウンセラーのような役割も広く担っていたのであった。

イタコの口寄せは、単に死者の言葉を一方的に伝達するだけのものではない。むしろ、遺された者たちからの問いかけや、伝えたい思いを、死者の世界に「届ける」という、双方向的なコミュニケーションの場を創出する点にこそ、その本質的な価値があると言える。この「対話の体験」こそが、文化や時代の違いを超えて、人間が抱える喪失の悲しみを癒し、慰めを与える普遍的な心理的効果を生み出す根源的な要因となっているのである。特定の信仰体系に深く根差した儀礼でありながらも、そこには人間が根源的に抱える悲嘆のプロセスに寄り添い、対話を通じたカタルシスと、失われた意味の再構築を促す、深遠な心理的メカニズムが働いているのだ。

イタコの技術と儀礼:魂を繋ぐわざ

イタコの醸し出す神秘的な雰囲気は、一朝一夕に得られるものではなく、長年にわたる極めて厳しい修行によって丹念に培われた高度な技術と、古来より連綿と受け継がれてきた儀礼の厳格な執行に支えられている。口寄せをはじめとする多様な巫術は、イタコが地域の人々の精神的な支えとなり、その期待に応えるための具体的な手段であったのだ。

口寄せ:死者との対話のプロセス

イタコの代名詞とも言える「口寄せ(クチヨセ)」は、死者や祖霊の魂をイタコ自身の身体に憑依させ、その言葉を依頼者に伝えるという神聖な儀礼である。この儀礼は、通常、イタコが独特の抑揚と節回しで祭文や経文を唱え始めることから開始される。そして、イラタカ数珠と呼ばれる、動物の骨角などが取り付けられた特別な数珠を両手で激しく擦り合わせ、特有の音を響かせることで、場を浄め、霊的な雰囲気を高めていくのである。次第に深いトランス状態へと移行したイタコは、やがて死者の霊をその身に「降ろし」、あたかもその霊が直接語りかけるかのように、依頼者に対して言葉を発し始めるのだ。

口寄せにおいて語られる内容は、故人の生前の思い出や依頼者への感謝の言葉、時には生前の心残りや未練、あるいは遺された家族への助言など、実に多岐にわたる。依頼者は、イタコ(正確には、イタコに憑依したとされる霊)に対して質問を投げかけ、対話を行うことも可能である。この一連の濃密なプロセスを通じて、依頼者は亡き故人との束の間の「再会」を果たし、心の奥底にわだかまっていた感情を解放し、深い慰めを得るのである。かつては、梓(あずさ)の木で作られた弓の弦を叩いてその音で霊を降ろすという、より古い形態の口寄せも行われていたと伝えられている。

オシラアソバセとその他の呪術・祈祷

イタコの役割は、死者の口寄せという極めて印象的な儀礼だけに限定されるものではない。東北地方に古くから伝わる民間信仰の対象であるオシラ様(養蚕の神、農業神、あるいは家の守り神など、地域や家によって多様な神格を持つとされる)の御神体である二体の人形(オシラサマ)を手に持ち、舞い遊ばせるようにする「オシラアソバセ(オシラ様遊ばせ)」という神事もまた、イタコが伝統的に執り行ってきた重要な儀礼の一つであった。この儀礼は、通常、桑の木で作られた男女一対の人形を用い、その家の子孫繁栄や五穀豊穣、家内安全などを願って行われるものであった。イタコはオシラサマを両手に持ってリズミカルに左右に振り、その動きや託宣によって、その年一年の吉凶や農作物の豊凶などを占うこともあったのである。

その他にも、イタコは憑き物のお祓い、悪霊退散の祈祷、子供の疳の虫を封じる呪術、災厄を避けるための魔除け、身体の不調を和らげるためのおまじないといった、実に様々な呪術や祈祷、さらには易や手相などを用いた占いなども行ってきた。これらの多岐にわたる活動は、イタコが単に死者と生者をつなぐ霊媒師であっただけでなく、地域の人々の日常生活に深く密着し、病気の治癒から人生相談、農作物の豊凶占いまで、あらゆる問題の解決にあたる包括的な宗教的職能者、いわば「暮らしの宗教家」であったことを明確に示しているのである。

修行と継承:師弟関係とイニシエーション

イタコとして一人前になるためには、まず師匠となる経験豊かなイタコに弟子入りし、数年から時には十数年にも及ぶ、想像を絶するほど厳しい修行を経なければならなかった。この修行の内容は多岐にわたり、膨大な量の祭文や経文、和讃、祝詞といった口承文芸を、一言一句違えずに暗誦すること、複雑な巫術の作法や手順を身体で覚えること、そして何よりも、厳しい精神的・肉体的な試練に耐え抜く強靭な意志を持つことを要求されたのである。特に、イタコの多くが視覚に頼ることができなかったため、師匠の口伝えによる教えの全てを、鋭敏な聴覚と驚異的な記憶力だけを頼りに習得する必要があったのだ。

この長く困難な修行の最終段階には、「カミツケ」あるいは「ウツシソメ」などと呼ばれる、極めて厳格な成巫儀礼(イニシエーション)が待ち受けていた。この儀礼には、長期間にわたる断食や穀断ち、真冬の凍てつくような川や滝での水行(水垢離)、そして最終的には自らの守護霊となるべき神霊を自身の身体に憑依させるという、まさに命がけの試みなどが含まれていたと伝えられている。この筆舌に尽くし難い試練を見事に乗り越えて初めて、弟子は一人前のイタコとして公に認められ、師匠からイタコとしての活動に不可欠な巫具一式や、「オダイジ」または「ユルシ」と呼ばれる免許皆伝の証を授けられるのであった。この一連の修行は、単に霊的な能力を高めるというだけでなく、依頼者から金銭を受け取って儀礼を行うに足る高度な専門技術を身につける、「修業」としての側面も色濃く持っていたのである。

イタコの修行がこれほどまでに極端な厳しさを伴っていたのは、単に高度な技術を習得するためだけではなかったと考えられる。むしろ、その過酷な試練を乗り越えた者こそが、常人にはない特別な能力を持つ「選ばれし者」であり、その言葉には神聖な権威が宿るのだと、社会的に認知させるための文化的装置としても機能していたのではないだろうか。このような認識は、イタコの社会的地位と、その託宣に対する人々の信頼性を確保する上で、極めて重要な意味を持っていたのである。厳しい修行は、技能伝承の手段であると同時に、イタコを社会的に権威ある「聖なる職能者」として構築し、その言葉の力を保証するための、巧緻な文化的メカニズムであったと言えるだろう。

イタコの道具:数珠、弓、そしてオダイジ

イタコが神聖な儀礼を執り行う際には、いくつかの特徴的かつ象徴的な道具が用いられる。その中でも最も広く知られ、イタコの象徴とも言えるのが、「イラタカ数珠」と呼ばれる通常よりも大ぶりの数珠である。この数珠は、ムクロジの木の黒い実を多数(時には数百個)繋ぎ合わせて作られ、その一部には雌雄の鹿の角の先端部分や、猪の牙、熊の爪、狐の顎の骨といった、野生動物の骨角や牙などが取り付けられていることがある。イタコは儀礼の際にこの数珠を両手で激しく擦り合わせ、独特の音を発するが、この音には霊を呼び寄せたり、邪気を祓い場を浄めたりする霊的な効果があると信じられているのだ。

かつては、梓(あずさ)の木で作られた弓(梓弓)の弦を、細い竹の棒などでリズミカルに叩いて音を出し、その音の響きによって神霊を弓に宿らせ、さらにその霊をイタコ自身の身体に憑依させるという、より古い形態の霊降ろしの方法も用いられていた。また、長年の厳しい修行を終え、一人前のイタコとして認められた証として、師匠から弟子へと譲られる「オダイジ」または「ユルシ」と呼ばれるものは、単なる個人的な承認に留まらず、イタコとしての公的な免許皆伝の証であり、地域社会で巫業を営む上での一種の営業許可証のような意味合いも持っていたのである。さらに、東北地方で広く信仰されているオシラ様信仰においては、桑の木などで作られた男女一対の人形である「オシラサマ」も、イタコが儀礼で用いる重要な祭具であった。

これらの道具は、単なる物質的な物品ではなく、イタコの霊的な力を増幅し、補助し、そしてその権威を象徴するという、多重的な意味を担っているのである。例えば、イラタカ数珠や梓弓の音は、霊を招き寄せ、場を浄化するという実用的な機能を持つと同時に、聴覚を通じて人々の意識を非日常的な状態へと導く効果も持つ。動物の骨角などが数珠に取り入れられている点は、自然界の持つ根源的な力や、特定の動物が持つとされる霊的なエネルギーを取り込み、儀礼に活用しようとするアニミズム的な思考の現れとも解釈できる。そして、「オダイジ」のような証書は、イタコの能力が個人的なものだけでなく、社会的な承認と伝統的な系譜に裏打ちされたものであることを示す記号としての機能を果たしている。これらの道具が持つ実用的機能、象徴的意味、そして社会的記号としての機能が複合的に作用し、イタコの儀礼全体の効果と神聖性を高めていると考えられるのだ。

イタコの現在と未来:変容と継承の課題

かつて東北地方の精神文化に深く根差し、地域社会で重要な役割を担ってきたイタコ文化も、現代社会の大きな変化の波の中で、深刻な後継者不足と担い手の高齢化という大きな課題に直面している。その伝統の灯を未来へと繋いでいくためには、多くの困難を乗り越えなければならない状況なのである。

後継者不足と高齢化の現状

かつて隆盛を誇ったイタコの文化も、現代においては深刻な後継者不足と、現役イタコの高齢化という二重の課題に直面しているのだ。明治初期には南部地方を中心に500人ほどいたとされるイタコも、現在、青森県内で伝統的な巫技を継承し活動を続けているイタコは、わずか数名にまで激減してしまっており、その多くが70代以上の高齢者であるという。現役最年少とされ、「最後のイタコ」とも称される松田広子氏のような若い世代の活動も見られるものの 、彼女自身も弟子を取る方針は持っておらず、新たなイタコを養成する師匠も既に久しく途絶えてしまっているのが実情である。

イタコがかつて地域社会において担っていた重要な社会的機能の一つに、「視覚障害を持つ女性の自立支援」という側面があった。しかし、現代においては医療技術の進歩や福祉制度の整備が進み、この機能の相対的な重要性が低下したことが、後継者不足問題の根底にある要因の一つとして考えられる。つまり、イタコという文化を支えてきた社会構造そのものが大きく変容し、その存続基盤が脆弱化してしまったのである。これは、伝統文化が社会の変化と無関係ではいられないという、普遍的な課題を浮き彫りにしている。

恐山と川倉賽の河原地蔵尊:現代におけるイタコの活動の場

現在でも、数少ないながらイタコの口寄せを体験できる貴重な場として広く知られているのが、青森県下北半島に位置する日本三大霊場の一つ、恐山(おそれざん)である。毎年夏(7月20日~24日)と秋(10月の体育の日を最終日とする3日間)に行われる例大祭(恐山大祭)の期間中には、少数のイタコがこの地に出張し、亡き人の言葉を求める多くの参拝者が全国各地から訪れるのである。ただし、恐山自体がイタコの養成や管理に直接的に関与しているわけではなく、イタコたちは普段それぞれの居住地で個別に活動しており、この大祭の期間中だけ恐山に出向いて口寄せを行うという形態をとっている。

もう一つの重要な活動の場として、青森県五所川原市金木町に鎮座する川倉賽の河原地蔵尊が挙げられる。ここでも旧暦の6月22日から24日にかけて例大祭が催され、その際にイタコの口寄せが行われ、下北の恐山と同様に多くの人々が集い、故人への思いを馳せる光景が見られるのだ。これらの霊場は、現代においてイタコ文化が辛うじてその息吹を保ち、一般の人々がその一端に触れることのできる、極めて貴重な舞台となっているのである。

文化継承への取り組みと現代的意義の再発見

イタコの担い手の減少と深刻な高齢化が進む中で、その貴重な文化を何とかして後世に伝えようとする、ささやかながらも切実な動きも存在している。青森県いたこ巫技伝承保存協会のような団体が、イタコの伝統的な巫術の伝承と保存を目的として活動を行っているが 、その具体的な活動内容や成果に関する詳細な情報は、残念ながら限られているのが現状である。現役のイタコとして活動し、その中でも最年少とされる松田広子氏は、イタコを単なる個人的な霊能ではなく、東北地方が育んだ重要な民俗文化の一つと捉え、その継承に情熱を注いでいる。彼女は、広く知られる死者の口寄せだけでなく、近年ではほとんど行われなくなり衰退してしまった「オシラアソバセ」のような伝統的な儀式の復活にも力を注いでおり、その活動は注目に値する。

現代社会において、イタコの役割は、かつてのような単なる死者儀礼の執行者という枠を超え、むしろグリーフケアや心理カウンセリングに近いものへとその重心を移しつつあるのではないか、という指摘もなされている。2011年に発生した東日本大震災の後など、愛する人々との突然の辛い別れを経験し、深い悲しみや喪失感に苛まれた人々が、イタコの口寄せに僅かな希望と救いを求めて訪れたという事例は 、イタコという存在が現代においても持ちうる切実な意義を改めて示すものであった。イタコが提供する「故人との対話」という非日常的な体験は、科学的合理性や論理だけでは到底埋めることのできない、人間の心の奥深くにある隙間を埋め、精神的な安寧や再生へのきっかけをもたらす可能性を秘めているのである。

《あ~お》の心霊知識